朝の光が綺麗だろうなと思いながらnoteを書く朝

布団の中で、ウェザーニュースの空写真投稿を見ることからボクの休日は始まる。淡いピンク色の空がいくつか並んでいた。その中にアプリで濃いピンクに加工した空が1枚だけ周りから浮いていた。教室に1人だけ居る不良みたい。注目して欲しいのかな思うと切なくなる。投稿した人はそんなことを意識していないのかもしれないし、SNSに慣れ親しんでしまったボクだから感じたことなのかもしれない。

没個性。スキルが平準化され、観光地では撮影スポットで皆がカメラを同じ方向に向ける。どこかで見たことのある写真が撮れる。写真好きじゃない人にとっては、それが思い出になる。旅の思い出話を友人にすれば、今度一緒に行こうよと発展するかもしれない。健康的だなと思う。だけど、写真を撮るためにその場を訪れた人にとって、誰でも撮れるような写真だけ撮れても満足できることは少ないと思う。少なくともボクはそうだ。定番の構図はもちろん撮るのだけど、自分らしい写真なんかをその場で模索し始める。周りの人たちを入れてみようとか、前ボケを入れてみようとか、望遠で切り取ってしまおうとか、撮影スポットを無視して近くの住宅街で撮ろうとか。すると、わざわざ観光地に来た意味あるのか?と、天邪鬼な自分に可笑しくなってくる。そのとき撮った写真を見ると、頑張ってるなとまた可笑しくなる。

同じ場所を何度も訪れたくなるのは、不完全燃焼だからかもしれない。たとえば東京に行けば、渋谷や新宿で「ここ前も来たよね」と思いながら彷徨ってしまう。変化する街だから同じ場所でも、以前来たときと違う写真がすぐに撮れるからコスパがいいと思っていたこともあるけど、最近では撮らずにただ歩いているだけで満たされることも増えた。初めて訪れた渋谷のスタバでチャイティーラテを飲みながら本を読む。6、7年前のボクなら考えられない選択だけど、撮らなきゃという焦りがなくなり、どこへ行ってもいつも通りの時間を過ごすことで自分が自分でいられる。自分らしい写真は、浮き足だった状態では撮れないだろうから。

体力の問題もある。3日歩き続けるような無理をすると翌日以降に響くから、納得できる写真が撮れなくなっても眠れるようになった。香港へ行ったときなんて、次いつ来れるか分からないから、3日間朝から晩まで歩き続けていた。若さってステキだなと思うし、ちょっとこわい。

カーテンを照らす光はいつか消える。外に出れば朝の綺麗な光が撮れるだろうけど、こうしてぼんやりと考えながら過ごす時間も悪くない。好きな写真なんだから、好きに向き合えばいい。

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