見出し画像

好きな写真について #22

あなたは写真が好きですか?

好きな写真もあれば、嫌いな写真もある。良さが分かる写真もあれば、どうしてあんな写真が良いと言われるのか分からないこともあるかもしれません。すべての写真を好きになんてなれなくていい。ボクが撮った写真は、ボクが良いと思った瞬間であり、同じ風景を見てもなんとも思わない人は沢山います。写真は、そういうものなんです。これを理解せずに、万人に認められるような写真を撮ろうとしていると、いつか必ず壁にぶつかります。北極圏でオーロラを見ても、なにも感じない人がいるくらいなんだから、街の写真を見て何も感じない人がいても不思議ではありません。

私が良いと思ったものは、みんな良いと思うはずだ。この思い込みから抜け出そうとしたとき、いいねが可視化された世界に依存していると脱出が難しくなります。感性を大事にしたいなら、写真を安易に見せないようにするか、リアクションが見えない場所を探すと良いかもしれません。数字は気にしないと断言できたとしても、目に入った一瞬で感情が揺さぶられる可能性がありますからね。ボクは数字の影響を無効化できるような精神力はもっていないので、意識して数字から離れるようにしています。最初は、SNSの世界から忘れられてしまわないだろうかという不安が付き纏うと思います。でもね、大切に築いてきた人間関係はそんなことで壊れてしまうことはありません。ずっと離れているわけではなくて、たまに気になったら投稿しています。自分がストレスなく付き合える距離感が見つかるときっと楽になるはずです。

もし、あなたが写真にそれほど興味がなかったら、今日のnoteはそんな世界もあるんだね、くらいに読んでいただけたら幸いです。もう離脱されているかもしれないけれど。ボクもずっと写真を撮ったり、見たりして生きているわけではないです。写真のことが頭の片隅に常駐しているだけです。撮らなくても見ているだけで、写真を撮った気分になれます。写真はフィルムや、データとして残っている必要はないとボクは思います。ボクが忘れたら、消えてしまう風景の記憶は、曖昧な写真のようです。写真友だちと深夜にゲストハウスを飛び出して、朝日を見に行った日の記憶は5年以上経っても忘れていません。帰りの新幹線が満員で、乗車口の奥でみんなでしゃがみ込んで将来のことを話した場面は、写真には残ってないけど、鮮明な記憶として言葉とともに残っています。尊敬している好きな人と過ごした時間は、忘れてはダメだとボクの脳が判断しているのかもしれません。子どもたちの様子を、カメラで撮らなくてもいいと思えたのも、ボクだけの記憶に残っていればそれで幸せではないかと思えたからだと思います。

物質として残らないけど記憶に残る写真と、ハードディスクで2度と見られず忘れられる写真。ボク以外の人が見ることのない写真なら、物質として残らなくても記憶に残る写真をボクは大切にしたい。

写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!