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好きな写真について #3

こんにちは、平井です。同じテーマでnoteを書くという取組みを始めて3日が過ぎようとしています。これまでのnoteを読みたいときは、まずは下のリンクから先に読み、3日目でどんなアプローチをしようか悩み始めたボクと一緒にどんな文章を書くか考えてみませんか?

正直、「もう書く必要なんてないのでは?」と思い始めている。ボクが好きな写真について書いて、興味がある人なんているのか? あぁ、この考え方が良くない。書きながら考えていると、自分の本音がポロポロ出てくるけど、それをまた書きながらこの場で改めていく作業がおもしろいから好きだ。好きな写真について考えるという名目のもと、自分の思考を垂れ流しながら、それに誰かが興味を示してくれればいい。あぁ、また誰かに読んでもらえたら嬉しいという気持ちが出てしまった。これじゃあダメなんだ。自分と向き合い、誰からの評価も気にせず、純粋に写真と向き合わなければならないのにどうしてだろう。これが本音なのかもよく分からない。

自分のために写真を撮る。縁もゆかりもない土地で写真を撮っているときのなんとも言えない孤独感を埋めてくれるのはその土地での出会いである。宿のご夫婦にとても親切にしてくれた思い出や、道を教えてくれたおばちゃんとのなんでもない会話がそこにいることを許してくれるように感じる。誰とも話すことなく、ロケハンした場所を巡ることを否定している訳ではない。ボクも毎週のように地元で通ったことのない道を順番に制覇し、どこに行けば何があるか調べることを生きがいにしている部分もあるから。そうして気付いたことがある。誰とも話すことはなくても、その土地と会話することはできる。たとえ特徴のない土地だとしても、「君はどうしてこんなに個性がないんだ?」と問えば答えを返してくれる。「あなたに言われたくないわ。私から見ればあなたほど個性のない人に出会ったのは初めてよ」。適当に妄想してれば、1人だけど1人じゃないような感覚になれる。

「今日はいい天気ですね」。朝日を浴び写真を撮りながらボクは呟く。すると民家の植木鉢が答えてくれる。「午後から雨だが、傘は持っているのか?」と。ボクは答える。「雨が降るからといって、傘を持っていれば雨に濡れない訳ではない。現に君は傘を持っていないし、傘を差すこともしない。むしろ雨を必要としているではないか。すべての人間が雨に濡れたくない訳ではない。これはとても大切なことだ。だが、教えてくれてありがとう。雲行きが怪しくなったらすぐに帰るようにしよう。だって私は雨に濡れることが、後ろから膝カックンされるのと同じくらい嫌いなんだから」。

さて、このnoteをどうまとめれば良いのか分からなくなってしまった。好きな写真についてと言いながら、これを読んでボクが好きな写真をイメージできる人がいるのだろうか。

会話したくなる場所で撮った写真。会話できた街で撮った写真。別に何が写っていようと関係ないのかもしれない。思い出したくなる写真。ずっと見ていたい写真。見ると記憶が蘇る写真。写真を記憶装置と考えるのなら、その役割を果たしてくれる写真はボクの好きな写真と一致しそうだ。木漏れ日写真のように、忘れてしまっても生きることに対して影響のない写真でも、好きだと感じる写真は、きっと意識することはないけどボクに必要な感動を与えてくれた写真なんだと思う。だから忘れないために、「好き」という感情になって気付かせてくれているのかもしれない。


写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!