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写真エッセイ〜2023年6月〜

「めっちゃ結露してるやん。」

妻の視界の先にある交番の窓ガラスが白く曇り、中の様子はぼんやりとしか見えなかった。朝から全力で冷房を効かせているようだ。東側にしか窓がないその交番は朝が1番暑くなるのかもしれない。5年以上、交番を毎朝見ながら通勤していたけど、窓の結露を意識したのは今日が初めてだった。これまでも同じように結露していたなら、ボクたちは何を見ながら駅まで歩いていたのだろう。ずっと見つめ合いながら駅まで歩いていたのかもしれない。写真エッセイを書くと分かっていても、交番の窓の写真を撮る気にはならない。窓の写真ばかりを集めた写真集が売られていても見たいと思わないのも、誰かの触れてはいけない部分が写っているかもしれないと思ってしまうからだろう。街を撮るのも似たようなものかもしれない。ボクの中にある曖昧な判断基準だけど、写真を見返すと何を撮り、何を撮らないかが見えてくる。

つまらないと思われてしまうような写真がどうしても多くなってしまうが、それらを並べてみるとじわじわと込み上げてくるおもしろさがある。11月に開催する個展では、そういった写真ばかりで空間を満たそうと思っている。タイムラインに流れてきても、空気のように意識されない写真たち。写真が身近な存在になればなるほど、誰にも見せないけれど、残したい瞬間が撮りたくなる。紫陽花が綺麗だったとか、豪雨で地下道が通れなくなっていたとか、話のネタのような写真から始まり、フェンスに絡まった蔦とか、転がっている植木鉢に惹かれていく。ボクはそうだった。ほとんどの人は、転がっている植木鉢なんか撮らないだろう。転がっていない植木鉢も撮らないかもしれない。誰にも意識されない存在に惹かれた、自分の価値観、感性に感動したいのかもしれない。なんでもない存在に魅力を感じられるようになれば、どんな環境でも自分を好きでいられる気がする。

どれくらいの人がありのままの自分を好きでいられるのだろうか。困難な状況に陥ったとき、絶対的な自己肯定感を武器に乗り越えられるような人間になりたい。こんな考えをしているくらいなので道のりは険しそうだ。写真が撮れなくなったら、それでもボクは自分のことを好きでいられるだろうか。文章を書き始めたときの記憶を辿ると、子どもたちが産まれたり、仕事が忙しかったりと写真が撮れない状況だった。隙間時間を利用して、写真の代わりに自分の思いを吐き出す手段を求めていて、文章を書こうと思ったのだろう。書けば撮らなくても良いと思えるようになったが、いつか書くこともできなくなるかもしれない。どんどん話の内容が暗くなっているように感じるかもしれないが、終わりがあることを意識しているからこそ、今できることを考え、未来に何をするかを考えているだけだ。人はいつか必ず死ぬ。不老不死は漫画の中だけの話にしておけばいい。終わりがなくなった人類が蔓延る世界なんか想像したくもない。美しく滅びるために、ボクは今を生きているのだから。

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