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何もない日も愛おしい

こんにちは、平井 @yuji87 です。

朝目覚めると隣で娘が気持ちよさそうに体を精一杯広げて眠っていた。ボクは起こさないようにそっと手に触れた。赤ちゃんだった頃は、ボクの小指を小さな手のひらの上に置くとギュっと握ってくれた。そんなことを思い返しながら、スマホで時間を確認するとアラームが鳴る1分前だった。体の疲れは残っていたが、数分間の癒しのおかげでボクは二度寝の誘惑に打ち勝ち布団から出た。それから家を出るまで20分。朝ご飯を食べるとお腹の調子が悪くなるリスクがあるから基本的には食べない。毎朝、持病のことを気にする生活ももうすぐ15年目を迎える。生きている間に完治することはもうないと諦めている。誤解しないでほしいが、人生を豊かにすることを諦めた訳ではない。今のボクは病気を経験していなかったら存在しない。病気とともに生きることを受け入れられたから、完治はもう望まない。いつ訪れるか分からない出来事のよりも今を大切にしたいからだ。妻に出会い、写真を通して世代を超えて多くの友人ができ、2人の子どもにも恵まれた。15年前の春休みを絶望とともに病院のベッドで過ごした自分にもし戻れるなら伝えてあげたい。「これから人生めちゃくちゃおもろなるで。」と。

人によって幸せの定義は異なる。あったかい白ごはんを食べたり、友だちと一緒に笑って過ごしたり、憧れの地を旅したり、みんなそれぞれの幸せを求めて生きている。何年も休載して最終回を迎えられるか分からない漫画がある一方で、エヴァンゲリオンのように長い歳月の末ついに終わりを迎えたアニメもある。未完の大作と呼ばれ後世に語り続ける漫画もありかもしれない。ヨークシン編で綺麗に終わってたら悶々とした日々を過ごすこともなかったのにと、ワイワイ言ってた頃が懐かしい。工学部の大学生はほとんどが男だったから、話のネタは漫画、アニメ、ゲームがほとんどだった。そんな中、ボクはワンピースとハンターハンター、ピューと吹く!ジャガーという王道漫画しか知らなかった。ガンダムという共通言語には触れたことすらなかったし、結局在学中に一度も見ることはなかった。他人に面白いと進められても、興味がもてないものは仕方がない。

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そんなボクが10年も写真を撮り続けている事実に、正直自分でも驚いている。写真を撮り始めてから一度も入院することなく生活できているから、ボクにとって写真を撮る行為はおまじないのようなものだ。バッターボックスに入る度に同じ動作をしてゲンを担ぐバッターのそれと同じだ。ホームラン級の写真なんてほとんど撮れないし、そもそもホームラン級の写真って何? Twitterでバズりたいという思いもいつしか消えてしまい、承認欲求はアルゴリズムに一喜一憂しながらInstagramで満たす。Twitterで10いいねしかもらえなかった写真が、Instagramだと1,000を優に超えるから面白い。本当にTwitterと相性悪すぎだろ。馴れ合いのリツート合戦には興味がない。Twitterでフォロワーを増やしたところで、その先にしたいことがボクには見つけられなかった。写真展の集客、写真集の販売に有利なのは魅力的だけれど、不特定多数より身近な人を大切にしたい。決して新しい出会いを望まないわけではない。でも、写真のコミュニティからはそろそろ脱却したいと考えている。

昨日書いたnoteのように、育児関連の内容だと読んでくれる人も同じように育児中の方が多くなる。写真もないし、ただ言葉をつらつら書いているだけなので、webメディアに慣れた人からするととても読みにくいと思う。最後まで読んでいただいた方には本当に毎回感謝の気持ちでいっぱいだ。以前のnoteにも書いたけど、一文改行主義のようなnoteが書けなくなった。余白が怖いのかと考えたこともあったけど、シンプルに画面が文字で満たされていく光景が好きなのだ。限られた言葉を組み合わせることで、唯一無二の自分だけの文章が現れていく。その過程がたまらなく魅力的に感じる。写真は結局は複写。誰かが作り出したものを、じぶんの視点で切り取っていく行為なのだ。子どもが生まれてすぐの頃はボクも写真を封印していたが、そのときにnoteを書くことで写真を撮りたいという欲求を満たせることを知った。アウトプットの結果が写真か、文章だと大きく異なるが、どちらもボクの内側にある思いを表現したボクにとってのお守りだ。

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写真や旅のことだけじゃなく、今ボクが気になっていることをnoteに書いています!読んでいただきありがとうございます!