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好きな写真について #33

好きを意識していると、無意識の好きに気付けない可能性がある。

存在するものすべてを好きか嫌いで判断していたら、もう一生をそれに費やしてしまうだろうから、ボクたちは何も判断しないために存在すら意識していないフリをして自分を守っている。その意識していないものの中に、好きな写真が含まれていても不思議ではないし、きっと含まれている。では、なにがキッカケとなって感情の変化が起こり、好きな写真が現れるのだろうか。メカニズムの解明を1,000文字程度の文章しようとすることが無理な行為かもしれないけど、何も感じなかった写真を見続けたときに『好き』と思えたなら、何が理由で「好きが芽生えた」か分かるはずだ。どれだけ見ても感情が変化しないという結果が得られたとしても、それはそれで初の取組みで得られた結果であり今後に繋がる重要な体験になる。

スマホの写真フォルダを探してみると、好きでも嫌いでもない写真を見つけた。

トラックと青空が気になったから撮ったんだと思う。ずっと眺めていたら好きになるんだろうか。

写真を見ただけでは、いい天気の日に駐車場にトラックが停まってるとか、空いてる駐車場がたくさんあるとか、左の建物のカーテンが一部空いてますねくらいにしか感じないと思う。壁の外に植木鉢が並んでいることに興味をもった人もいるかもしれません。だけど、見て分かる情報だけでは足りなくて、写真全体から放たれるオーラ、エネルギーの類が感情を揺さぶりを助長する。揺れがどんどん大きくなりドキドキして、心臓が張り裂けそうになると、「もしかしてこれが"好き"ってこと?」という感情が芽生えるなら、社会はもっと優しさに満ちていると思うから、どうやらそこまで感情が昂らなくても"好き"と言ってしまうのが令和なのかもしれない。SNSで「好き!」、「いいね!」を乱用し過ぎたせいで感覚が麻痺し、真実の「好き」を感じられなくなっているとしても、それが良いことなのか、悪いことなのかボクには分からない。

こうして書き進めながらも、トラックとアスファルトと青空の写真を眺めてはいるのだけれど、ドキドキする気配がない。そうだなぁ、たとえば学生時代に全く気にしたことのないクラスメイトに、「消しゴム貸してくれへん?」と聞かれたから貸してあげたとする。その後、返してくれたときに、「ありがと」の一言に心を奪われ、心臓が張り裂けそうな経験を1人や2人くらいはしていると信じたい。このとき、一体ボクたちの心の中で何が起きているのだろう。もし、これを転用できれば、どんな写真でも好きになってしまうのではないか?

ボク・・・ボク
全く気にしたことのないクラスメイト・・・好きでも嫌いでもない写真
クラスメイトのありがと・・・写真の〇〇○○

さて、難問です。仮に写真が「撮ってくれてありがと」と言ってくれたら、ボクはどう思うだろう。

トラック:ゆうじ!ナイスショット!!
アスファルト:乾燥肌が恥ずかしいくらい綺麗に撮れてるぜ!!
青空:気持ちのいい日を記録してくれてありがと!!

好きでも嫌いでもない写真が、ボクに気持ちを伝えてくれたことを想像してみた

あぁ、こんなことを言われたら、ドキドキはしないけど、写真に対する思いは強くなりますね。写真は写ってくれる存在がいないと成立しないから、被写体には敬意を示しなさいと先人たちが仰っていた理由が少し分かったような気がします。

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