振動からの浸透
僕は、この世界の答は最終的に振動となって現れると考えている。
しかし、振動のままでは答は分からない。だから振動を音に変える。振動は音となるから。
言葉とは音である。意味と内容に合う音。
音という形の容れ物の中に、同じ音の異なる意味と内容を入れても、音という形は変わらない。
僕は答の源泉をそこに求める。
だから、感覚を的確にするには間隔を思考する。
時間の感覚を間隔にすると、源泉は厳選しなくてはならない。
時とは命の時間であり、命は生死の間に病がある。だから秒を思考するのに病を指向する。
生死では知恵の領域しか思考出来ないが、病が増えると理解の領域まで思考出来るようになる。
病を開示する為に解字の力を用いる。
病とは会意兼形声。丙ヘイは、両またをぴんと開いたさま。病は「疒+(音符)丙」で、病気になってからだが弾力を失い、ぴんと張って動けなくなること。
つまり病とは、からだが弾力を失って動けなくなること。
弾とは、異体字で彈。彈は「弓+(音符)單」で、弓や琴の弦が上下に動くこと。
弾力とは弓や琴の弦が上下に動く力のこととなる。
病とは、からだが上下に動く力を失って起こる。
丙とは象形。机や人の足がぴんと左右に張ったさま。
丙は甲乙丙と三を表す漢字である。なので理解を表現する漢字として丙が含まれる漢字である病は相応しいと感じられる。
秒とは会意。「禾(イネ)+少(小さい、細い)」
秒は非常に小さい単位の意である。
僕は武を思考するのに舞を用い、舞を用いるのに無を用いる。
逆を用いれば無の逆は有で、武の逆は文で、舞の逆は何だろうか。
武で秒を用い、文では分を用いる。
分かったことは感の答に正解があるなら、それは間にあるということ。
止と動では知恵の領域までしか思考出来ない。
だから、止と動の間に静を含めて理解の領域を思考する。
これが僕が文の力を武の形に変換する方法論。
この方法論で解いた力である勢を形に変換させ、両儀を太極とする拳として惟式(身式であり武式)は生まれた。
普通なら健康から武力を求める。
しかし、神技を求める道は逆の道を厳選するしかない。
まずは芯(心である神)を求める。
暴力ではない武力の骨はそこにある。
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