基礎的な理論ー動き
惟式(身式であり武式)の理論の根本理論である動きについて解明する。
動きとは何か。動きとは、動くこと。
動くとは何か。動くとは、ある位置やある状態から他の位置や他の状態に移ること。
つまり、動きとは位置や状態を移すことを言う。
では惟式(身式であり武式)における動きとは何か。
惟式(身式であり武式)においての動きとは、必然により位置や状態を移すことを言う。
惟式(身式であり武式)にとって最も必要なものは必然であり、惟式(身式であり武式)は理から必然を紡ぎ、動きにする。
必然とは必要な自然であり不必要な偶然を惟式(身式であり武式)は必要としない。
惟式(身式であり武式)は一対一や徒手格闘を想定していない。惟式(身式であり武式)の想定は多数に対する戦闘若しくは制圧であり、凶器を所持した者に対しての戦闘若しくは制圧である。
惟式(身式であり武式)の求めることは自分に当たらないことであり、相手に当てること。
第一は当たらないこと。
第二が当てること。
多人数や凶器を所持した相手との戦闘では当たったら終わりである。
では、当たらない為にはどうすれば良いか。
答は、動くこと。
ではなぜ動くのか。その理由は当たるからである。
ではなぜ当たるのか。その答は当たる位置にいるから。当たる状態だから。
当たる位置だから、当たる状態だから移す。単純に答えるとこういうことで惟式(身式であり武式)は動く。
相手の攻撃が当たるから動く。
自分の攻撃が当たらないから動く。
動く理由は単純に分けるとこれだけである。
惟式(身式であり武式)では動きに理由を求める。惟式(身式であり武式)では動きに良いを求める。
良い動きを理解するには良いとは何かを理解しなくてはならない。
では、良いとは何か。
良いとはけがれがない。質がよい。わざがすぐれているさま。のこと。
良の原字は粮で、粮の意味は異体字では糧となる。ということは糧となることが良いということになる。
糧とは米と量で、重さや分量をはかって用いる主食のこと。
原字とは異体字の種類を表す用語。異体字とは字義、字音が等しい同一の字種でありながら、互いに異なる字体を有する文字。
つまり、粮と糧は形は異なるがその形の表す意味は同じということ。だから良と量は同じになり、良いことは量ることであり、量ることは良いこととなる。
では、何を量るのか。それは米である。米とは何か。それは主食である。主食とは主に食べる物。では良い米とはどんな米か。それは善い米である。では善いとは何か。善いとは美味しいということ。なので善い米とは美味しい米のこと。
美味しいとは、味が美しいということ。
ということは良い動きとは美しい動きということ。
何を持って美しいと感じるかは個人差があり、その差が感性の差となり、感性の差が結果として完成度の差となり、動きの差となる。
良い動きとは、何か。
良い動きとはとても簡単で単純である。
良い動きとは、理に適った動き。
良いものとは何かが分からないと良いものは分からない。
良いものとは理に適ったものであり、良いとは理そのもののこと。
だからこそ惟式(身式であり武式)は良いを求め、理を求める。
では理とは何か。理とはことわり。物事の筋道。筋目を立てる考え。
では物事の筋道とは何か。
それは、もっともなこと。
もっともなこととは、当たり前のことで、当たり前のこととは、当然なことで、当然なこととは、自然に当たること。
つまり惟式(身式であり武式)が求めるのは、自然に当たることで、自然に当たる為に必要な自然を求め、偶発的な自然現象は避ける。
つまり、自然の筋道がもっともなことであり、もっともなことを求めることが理を求めることとなる。
技が起こす、一見は不可思議に見える状態や現象は理を解することが出来る知識がない為に必然の仕組みを理解出来ずに技法の起こす状態や現象を解明出来ない為に不可思議に見えるに過ぎない。
技法である限り、状況を揃えることが出来るなら万人にその技法は可能である。
一言で言えば技を使うとは、技と呼ばれる状態や現象となる状況を揃えることである。
惟式(身式であり武式)が象徴とする動物は羊。
善いも美もそこに隠れた生き物は羊。そして、達することが出来る生き物も羊。
だから羊から想像と創造を起こし惟式(身式であり武式)を創造した。
完成されたものは、奇跡的かつ魔術的な武術として結実した。
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