正しさが生む勢の力

惟式には真言がある。

惟式の真言とは、真実の言葉と認識することを可能とする言葉の呪文。

真言は理を基にして数式と重ねて体系化している。

始め(零)の真言

真言は零の位置から始まる。

零の真言とは

「求めよ、されば開かれん」

零とは無と似ている。

惟式は公式である。公式は万人に向けて開かれた式であり、貧富の差を必要としない。

持たない者が持つ為に開かれるのが惟式。

だから、惟式は零から始まる。

惟式で用いるのは音。

音とは振動の形。

振動を神道に変換して閉じた門を開く。それが惟式の目的。

一の真言

「与えよ、されば受け取らん」

惟式では一は与えるものと認識する。

一とは位置となるもの。

正解は一に止まることで解ける。

惟式は正解を与えることから逆算して、問の門を開く。

門は位置を閉じる為に囲う。

問の門を開くと口が出て来る。

惟式は不可能を可能に変換する為の公式。

不可能を可能とするのは不を否に変えることから始まる。

惟式は否定を否定することから肯定を導く為の公式。

惟式(身式であり武式)の根本理念

惟式(身式であり武式)は防衛術であり、護身術。
術には技があり、技術となる。

防衛とは他からの攻撃に対して、防ぎ守ること。
護身とは他から加えられる危険から身を守ること。

衛とはまもることであり守と意味が近い。

惟式(身式であり武式)は、まず防ぐことを第一とし、防ぐことで守る。

惟式(身式であり武式)は防ぐ動きが技となり、防ぐ技が攻める技となるように仕組まれている。

惟式(身式であり武式)の根本理念は隠秘術で語られている真理の言葉の体現。

その言葉は「汝自身を知れ」

自身を知るとは自という個性を知ること、人間という生命を知ること、宇宙という世界を知ること。

自身を知る為に用いるのが理であり、惟式。

最弱を最強にするを具体的に知恵を用いて思考すると、知恵の領域は数で言うと二となるから、知恵を用いるとは、対を用いて思考することで、正しい対とは正対で正対を用いて思考すると最弱とは死と生の対を用いると死になる。

死んだ者は最強には出来ない。

なので、知恵を超えて理解の領域を用いる。

理解の領域は数で言うと三なので死と生の間に病を増やす。

病んだ者を健康にする。

病んだ者は立てない。だから立つことから惟式は始まる。

ただ立つことから片足立ちで立つことに進む。

ただ片足で立っことから身体を振動させて立つことに進む。

自身が生み出した振動を自身で消化出来る身体操作の感覚を覚える。

次に、生み出した振動を対戦する相手に伝導させる身体操作を覚える。

これを過去の中国武術では危勁と呼んで奥義として秘匿していた。

僕は秘匿された危ない勁の正体を隠秘学を用いて自力で暴いた。

惟式(身式であり武式)を想像する時、過去の神技と言えるだろう太極拳と大東流を想起した。

太極拳は名の通り太極思想を技法に変換したもので、大東流は合気道の母体となった古流柔術。

二つの武術に共通することは天才の創始と形骸化した神技。

なぜ天才が創始した神技は形骸化したか、理由の解明に神技の現実化への道がある。

惟式(身式であり武式)の一は引く技術。惟式(身式であり武式)の一は位置の技術。

止と動は知恵の領域。止と静と動は理解の領域。
正解を求めるなら、与えるのは理解の力でないとならない。

太極は両儀だが、両儀では止と動しか知りようがない。

太極を理解するには中庸の力がいる。中庸とは片よらず中正であること。中正とは片よらず公正であること。公正とはかたよりがなく正当であること。正当とは正しくて道理に適っていること。道理とは物事の正しい筋道。なので物事の正しい筋道を知る為に中庸を求める。

惟式(身式であり武式)の思想法

惟式(身式であり武式)は他の武術や護身術とは思考が異なる。

惟式(身式であり武式)は零から始まる。それは無い状態から始まるということ。

普通の武術や護身術は健康体から始まり更に頑強な肉体を作りながら戦いの技術を習得していく。

しかし、惟式(身式であり武式)は最弱を想定し、最弱の状態を特殊な技術で最善まで改善することを求める。

最弱を最善まで改善する為に求められるものが理であり、惟式(身式であり武式)は理を解くことで力を求め、求めた力の連なりで形を成す。その力の形を型として力を集める土台となる動きである勢を生み出す。


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