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映画「哀れなるものたち」ベラ・バクスターという登場人物への共感

「哀れなるものたち」ヨルゴス・ランティモス監督
1月末に2024年最初に映画館でみた映画。

私は過剰にエマ・ストーンが演じました主役のベラ・バクスターに共感してしまいました。

基本的には人間の「純粋性」についての話?問いかけ?の映画だと思った。
ベラ・バクスターは体が大人の形をしている状態で子どもの脳みそを持っていてそこからめっちゃスピーディーにいろいろなことを学んで脳みそが成長して、いろいろなことを(情報として)吸収するスピードと精神的な成長の度合いが多分一致してなくて、精神的には幼稚、良く言うと擦れてなくてめっちゃピュアな状態で情報の処理能力や対応の反射神経だけが発達している人間に見えた。
ベラ・バクスター(の脳みそ)は閉じた世界の中で素直に気ままにピュアに育ってきたけど、純粋すぎて欲望に正直であるが故に人を傷つけてしまったり、人間関係をややこしくしてしまったりとか、なんか世間の醜いところから守られてきたお家から外の世界に旅に出て、経験したことのない環境や外の世界の無情さを知ってしまって感情がゆさぶられて極端な行動に出てしまったりする点など、わりと全てに共感できた。

他者(または他者の集まりである社会)が存在すると、「他者が望む自分」とか、自分が勝手に思い込んでいる「他者が望んでいるかもしれない自分」とか、何者・何事にも左右されない純度100%の自分と他者が希望する自分の間に摩擦が発生するけど、ベラ・バクスターは摩擦のことはあまり気にしてなかったと思う。赤ちゃんのころの記憶はあまりないけど、赤ちゃんは多分他者が望む自分の姿など考えていないから、多分それと同じこと。そしていろんな曲面で自分が必要だと思った結果に向かって邁進する。そして希望する結果につなげる。

大人になるとピュアでいることは全然快適ではないと思う。多くの大人たちがどうやってそのように鈍くなっていくのか、濁っていくのかの方法はまじでわからないし、好きでそのような状態になっているかどうかも知らないけど、やっぱり大人の社会は基本的に鈍かったり濁ってたり計算高かったりする人間達で形成されているので、ピュアな視点?感情?を持ち続けて存在してるのはしんどい。
「馬鹿正直」と言う言葉があるように、「馬鹿」がつくくらいだからやっぱり正直であることも不便だし良くないと思われがちなんだと思うし、「嘘も方便」は悪い言葉として使われていないので適度に嘘をつける方が生きやすいと思う。
でも生きやすさとか生きにくさを超えて、純粋で馬鹿正直で自分に正直な行動してくるベラ・バクスターのことがめちゃくちゃ好きだった。
なんかわかんないけど男と対峙するというか、男を振り回す?男の思い通りにさせないベラ・バクスターみたいな感じの表現や感想を見かけたけど、私は相手が男でも女でも同じ対応をしていたのではと思いました。

最後に1点まじで言えることは、ベラ・バクスターは美しすぎるし、美しいからこのようなストーリーが成立したけど、醜いもしくは凡庸な見た目だったらこの物語は成立しないでしょう。
だからさ!物語を成立させるためには見た目は大事だということをこのご時世ですが言わせていただきます。
総合的な意見として、見た目だけに振り切るのはどうかと思うけど、視覚のある人間がある程度見た目に惑わされてしまうのは仕方ないことだと思う。

映画先に観た人も原作の本を褒めているのを見かけたし、ベラ・バクスターがどのように書かれているのかが気になるから原作も読んでみようと思います。

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