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【短編小説】サイレン

……ウーーーーー ウーーーーー……
『善福寺川の、水位が、上昇して、おります。危険ですので、外出を控え、川には、近付かないように、して、ください』

サイレンの長さに合わせたような、やけに間延びした放送が流れる。とても急を要する状況には思えない。一応窓を開けて外の様子を見ると、柿の葉の濃い緑色が横殴りの雨に打たれて左右に揺れている。
 これで今日は水撒きをしないで済む。
 空梅雨の終わりを告げる雨に感じたのは、それぐらいのことだった。

 生まれてからもう四十年、ずっとこの家に住んでいる。歩いて一分もしない所を流れる善福寺川が氾濫したのは、三十年前のたった一度だけ。それを機に川底の掘り下げ工事をしたので、その後はサイレンが鳴ることは度々あるが、水があふれ出したことは一度もない。したがって、もはや私にとってサイレンとは、警鐘というよりあの日を思い出す合図になっていた。善福寺川があふれた日。
 あれは私が小学四年の時だった。
 あの頃私は……当時の記憶が映像になりかけたところで、階下から母の叫ぶ声が聞こえた。
「隆志、大変!」
 母は歳と共に心配性になり、最近は「大変」が口癖になっている。
「大丈夫、大丈夫。掘り下げ工事もしたんだし」
 そう言っても母の慌てた声は、一向に収まる気配がない。仕方なく階段を下りていくと、母は祖母の部屋から急ぎ足で出たり入ったりを繰り返している。
「隆志、おばあちゃんが、おばあちゃんが……」
「えっ、どうかした?」
「いない……」
 
 祖母は八十歳を過ぎても海外旅行に行くほど元気だったが、一昨年米寿のお祝いの食事に出かける際、玄関で転倒して足首を骨折してしまった。それ以来足腰が急に衰え、家で寝たきりの生活を送っている。活発に行動していたのが、急に部屋から出なくなったからだろうか。少し前から認知症の症状が出始め、最近では友人、親戚だけではなく、同居している母と私のことさえわからなくなってしまっていた。

 いくら何でも、二年間寝たきりの祖母が外へ出かけるとは思えない。私は祖母の部屋に入り布団をめくってみたり、ベッドの下を覗き込んだりした……だがやはりどこにも姿が見えない。
「どうしよう……もしおばあちゃんに何かあったら……隆志、警察よ。警察に連絡して!」
「落ち着いて。あの体じゃ遠くへ行けるわけないだろう。必ず家のどこかにいるはずだから、もう一度探そう」
 取り乱す母をなだめていると、

……ウウーーーーーゥーウウーーーーーゥー……

 川の警報と比べてかなり高音で、緊張感のあるサイレンが鳴り響いた。警察だ。同時に救急車のサイレンが互いに絡まり合うように反響し、それらが家の近くで急に止まった。

 母は家を飛び出し、音の方へと走った。私もすぐに後を追い外に出ると、いくつもの点滅する赤いライトが視界に飛び込んできた。川の方からだった。急いで駆け寄ると、何人もの警察官が取り囲むその奥に、ベージュの寝巻姿の白髪の小さな体が、雨にうたれながら横たわっていた。
「おばあちゃん!」


五時間目の授業中、突然黒板の上にあるスピーカーから声がした。
『校長の北川です。えー、ただ今善福寺川が氾濫しました。あ、えー、善福寺川があふれました。生徒の皆さんは、授業が終わっても、安全が確認されるまでそのまま教室に残ってください。先生方は至急職員室に集合してください』
「すげぇ、俺見に行ってくる」
 私は真っ先に声を上げた。
「池沢じゃ溺れちゃうだろ。俺なら大丈夫だけどな」
 すぐに井上が反応する。
 あの頃私はクラスで一番背が低く、井上は一番背が高かった。
「池沢君も井上君もだめです! 先生は職員室に行ってくるので、このまま自習をしていること。わかった?」
「はぁーい」
 先生がいなくなると、何人かは川を見るために机の上に立ち上がってみたり、屋上に行ってみたりしたが、そんなことをしているうちに先生はすぐに戻ってきて、
「校長先生の許可が出るまで、今日はこのまま教室で授業をします。おうちの人には今連絡網で、お迎えも危険なので来ないようにお願いしています」
 と告げた。
「えー、家でゲームする時間なんだけど」
 井上のそんな意見が聞き入られるわけがなく、先生はそのまま授業を続けた。六時間目が終わる頃には雨は小降りになったが、下校許可の指示はまだない。私たちは未経験の七時間目に突入した。といってもちょうど放送されていた道徳のテレビを見ているだけだったのだが。
 その時だった。教室のドアがノックされ、用務員さんが顔を出した。と当時に背後から、
「隆志―、大丈夫? 迎えに来たよー」
 と大きな声がする。祖母の、強いパーマがかかった茶色い短い髪が見え隠れしていた。
「おばあちゃん!」
 思わず私は声を上げた。教室がざわつく。
 先生が慌てて駆け寄り、
「池沢君の……?」
 と尋ねると、
「はい、祖母です。隆志がいつもお世話になっています」
 と頭を下げているのが見える。
「あの……お迎えは……」
 言いづらそうにしている先生の言葉を、祖母はすぐに遮った。
「はいはい。聞いてますよ。でもね、うちの隆志は背が小さいでしょう。みんなは大丈夫でも、隆志は溺れるかもしれませんからね。どうしても迎えが必要なんです」

 一瞬間があり、その後教室中にどっと笑いが起こった。
「そうそう、隆志は危ないや」
「静かに!」
 先生とみんなのやり取りを聞きながら、私は顔から火が出そうなほど恥ずかしかった。

 そんな会話をしている時、校長先生の帰宅許可の放送が流れた。
 雨上がりの道をはしゃぎながら帰るみんなを横目に、私は祖母と二人で善福寺川にかかる尾崎橋を渡った。
「あらっ、この辺りにも水が来てたんだね」
 祖母の視線の先に、川沿いの道にある、いつもは真っすぐに伸びている雑草が、水の流れに沿って全部なぎ倒されているのが見えた。それはすごい光景だったが……。
「隆志が流されなくて良かったね。本当に良かったね」
 いくら背が低いからといって、流されるわけないじゃないか。
 祖母の言動に、私だけがやけに子供扱いされている気がしてムッとしてしまい、下を向いて家に帰った。


 救急車に同乗し、私は付き添いとして祖母の病室に入った。

 川の近くで倒れているのを通りがかりの人が発見し、すぐに警察と救急車に連絡してくれたらしい。その迅速な対応のおかげで、幸いにして肺炎などは起こしていないようだが、この歳で発熱するだけでも命の危険に直結してしまう。今後は部屋の外から鍵を掛けることも検討しないといけないだろう。それにしても、寝たきりが続いていた体でどうやって川に行ったのだろう。それもこんなどしゃ降りの雨の日に、なぜ……。

 ガタン!
 その時、ベッドの上で音がした。祖母が上体を起こそうとして手が滑ったのだ。
「おばあちゃん、気がついた? あぁ良かった。ほら、静かに寝てないと。またどこか痛めたら大変だから、ね」
 私が近付くと、祖母はこっちをずっと見つめている。
「もう、どれだけ心配したか。なんで起き上がったり、家から出たりしたんだよ」
 そう言いながら、祖母の伸ばした細くて皺くちゃな手を、そっと握る。すると、
「あなたはいいですね」
 小さな声で祖母がつぶやく。
「えっ? 何?」
 私の問いかけに、今度ははっきりと答えた。

「でもね……うちの隆志は……背が小さいでしょう……あなたは大丈夫でも……隆志は溺れるかも……しれませんからね……どうしても……迎えが……必要なんです」

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