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しあわせホルモン

にゃーお。

にゃー。にゃーん、にゃーお。

猫だ。猫が誰かを呼んでいる、でも気づいてもらえないんだろう。その声はどんどん大きくなって、わたしはたまらずマンションの部屋から出た。寒いけど、すぐそこだし。これはよっぽど、何かを要求しているにちがいない。

にゃーあ。にゃお。にゃーん。

ほとんど叫ぶみたいに、見慣れた猫が大声をあげていた。よくこのあたりで見かけるハチワレ猫、わたしはもうだいぶ前から、顔見知り。

マンションの階段を踊り場まで降りて、声のする方向を見た。隣家の庭からあからさまにわたしの住むマンションを見据えて、なにか不平不満を述べていた猫はわたしに気がつくと「にゃーーー!」と言い放った。そう!おまえだ!と言うかのように。

ええっ、と思ったけれど、猫は可愛い。冷静にスマートフォンを取り出し、カメラを向けた。だって物をいう猫の動画、撮りたいじゃん。

しかし猫はわたしの顔を一瞥すると、もう満足げにこちらに尻を向けて毛づくろいをし始めるのだった。「用はないよ」と言わんばかりだ。片足をあげて下腹部をなめるポージング。なんとも小ばかにしている。でも、わたしは下腹部が温まるような幸せを感じていた。セロトニン! コロナ禍でろくに人とも会わず渇ききったわたしのなかで、無条件に幸せを呼び起こしてくれるのは、やっぱり……猫。やわらかであたたかなもふもふが、自由奔放に暮らしている。わたしがいてもいなくてもきっとこうやってのびのびと生きていくのに、たまに振り回されてしまう。もはや存在するだけで尊い。

翌日。

にゃあ。にゃーん。にゃおーん。

いや、音量でかいだろ! これ、ドアの前からするだろ、声! ちょうど在宅勤務の昼休みにミスタードーナツに行こうとしていたわたしは、おそるおそる部屋の扉をあける。猫はいない。

階段のほうを見ると、さっとしっぽが通り過ぎた。にゃー。にゃあー。また声がする。下だ。

わたしはミスドに行くためにマンションの階段を降りる。踊り場から見下ろすと、でーん。ハチワレ猫。可愛い。まだわたしの顔を見て、なにか言ってる。完全にわたしの目を見てる。にゃー、にゃおーん。

わたしはミスドに行くのでさらに階段を降りる。猫はわたしの入れない、狭い柵のあいだに移動する。まだなにか挑むようにわたしを見て、なにか言ってる。可愛いので、スマホを取り出して録画ボタンを押す、と、秒で逃げた。録画時間2秒、ただ猫らしきいきものがシュッといなくなるだけの動画が、わたしのスマートフォンに残った。

マンションのオートロックを開けて外に出て、きっとまだそばにいるだろうと周りを見まわす。けど、猫の姿は見あたらない。どこかからわたしのことを見ているような、気だけがする。さっさとあきらめて、ミスタードーナツに向かう。いいことあるぞー、という例のCMを思い浮かべる。わたしはもう行く前からいいことあったぞ。

あの子は、なんなんだろう。愉快犯? このあたりでいちばん猫によわい人間をリサーチして、からかっているのだろうか。街のいたるところでごはんをもらい、野良とは思えないほどすこやかな体つきとファサファサの毛並みをしている。あえてわたしにごはんを強請らなくたって、じゅうぶん腹は満たされているだろう。かといって一定の距離を保ち、撫でさせてくれるわけでもない。よくわかんないけど、とにかく可愛いのだ。このあたりには野良猫は多いけど、この子は特別というような気分になってしまうのだ。

もし、あの子がわたしの顔がみたくてやっているのなら。ロミオが来たのだろうか、と思いたくなる。もう、一年以上前にお別れをした愛猫だ。

でも確か、彼らのルールとして、気づかれてはいけなかったはず。こっそり様子をみて、野良の一匹としての存在しか認知させてはいけなかったはずだ。ねえ、こんな大胆にわたしに会いに来たら……怒られちゃうよ。でも、また会いに来ていいよ。わたしは気づかないふりをして、ただ、野良猫に振り回される、この地域でいちばん猫が好きな人間として、可愛いなぁって思うから。わたしのセロトニン出せるの、やっぱり君だけなんだよ。

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