フィリピン人のやさしさにふれて
優しさとは何か?
私はコロナで仕事を失い、どうしようもなく何もできないロックダウン下のフィリピンより今年の6月帰国した。
高校卒業後からすぐに海外に出て、フィリピンやタイ、マレーシア、沖縄などにも住み、世界を周り理想の自分の住む場所、住む環境を常にどこか追い求めているところがある。
フィリピンは一度住み外に飛び出しまた30歳を越えてから戻って来た第二の母国。
フィリピンの何が良いかと尋ねられると、生まれ育った東京の何が良いかを尋ねられているのと同じようなことでなかなかすぐには答えられない。
ただ今日本に再び戻ってきて明らかに違う要素があることはわかる。
それがやさしさだと気づくまでにやはり時間がかかった。
やさしさの形が違うのではないか
優しさと一言で言っても様々なやさしさがあると思う。
フィリピンの地方都市に住んでいた僕が感じたやさしさは飾ることがない、直球で根底の力強さが滲み出る包み込むような大らかなやさしさ。
ロックダウンの大変な時期で食べることもままならない、近所の海に行くことすら許されない中いつも笑って大声で冗談を言い合っているあの強さ。
米が配給されている時に自分達は貰えないのにわざわざうちまで来て「今米配ってるからあなたならもらえるかもよー!」と呼びに来てくれ、何故だか僕だけ米を貰えるとみんなで拍手して「良かったね―!さすがーー!!」っと冗談交じりで本気で喜んでくれる。
映画のように僕は両手を勝ち誇ったように上げ、拍手したり握手を求めてくる近所の人達の輪に入って行く
先の見通しは立たなく、仕事どころか外出すらも禁止されている中あの強さ、やさしさはどこから来るのか?っと毎日感じていた。
彼ら彼女らのやさしさは直球でシンプルでその向かう方向がよくわかっているのではないかと思うこともあった。
一言で言うと大きな意味での家族愛、キリスト教国であるフィリピンにおいて隣人を自分自身のように愛せよ、を体現している感じではないかと分析してみたりもした。
やさしさには余裕や諦めが必要なのか
やさしさで日本とフィリピンを見るとその多さや頻度が違うなと思いつく。
ではそのやさしさはどこから生まれてくるのか?
ちょっと思いつくのが人々の余裕が違うなと行き着く
フィリピン人の方が余裕がある人が多く、また一種の諦めのような真理、シンプルに生きるというのが美徳であるのでそれがやさしさにすぐに結びつくと感じる。
日本人は特に都会の人は忙しいのが美徳になっているのでは?とはたから見ると感じる
「忙しい」と言う言葉はあらゆる場面で聞くし、「責任」とか「仕事」とか「ストレス」という言葉も頻繁に耳にする。フィリピンでこれらの単語はあまり出てこない。
「忙しい」と言おうものなら「そうか忙しいのかー、一生忙しいのか?」っと茶化される。
忙しいという言葉は文字通り心を亡くすと書く、これではやさしさはなかなか生まれてこない。
やさしさ溢れる環境で過ごしたい
いろいろ振り返ってみると私はやさしさ溢れる、身近に多くのやさしさにふれられる環境で過ごしていきたいと思っていたんだと行き着く
フィリピンでその恩恵にあずかり、今度は自分がやさしさを配る番だと日本でも多くのやさしさを根付かせることをやっていきたいと思う。
まずはやさしさの種を蒔いていき、多くの人と共にやさしさの根っこを付けていく。
もっと余裕が持てる世の中を、生き方、ライフスタイルを発信していきたい。
美しい日本もそうだが、やさしさ溢れる日本にしていきたい。
美しく優しいのはどんなに素晴らしいことか
1つのやさしさにふれて多くの人のやさしさに行き着く
やさしさは共鳴し世界中に広がる、たとえどんな時であろうとも
最も強いモノの一つだと僕は思う。
やさしさから変えていける世界もある
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