見出し画像

自分の人生を生きる、を伝えるパーソナルトレーナー Lunch #81 山内椋太さん

ランチを毎週やっていると、珍しい職業の人に出会えることがあります。落語家さんや魔法使いさんや、料理研究家さんなど。

今回は、競輪選手(候補)と消防士という珍しい職業の合わせ技です。この2種類の職業を経験しながら、今ではフリーのパーソナルトレーナーをされています。

いろいろな職業を経由しながら、つながりがあまりなさそうなパーソナルトレーナーという職業にたどり着いた山内さんのポイントはこちらです。

・専門性にのめり込む
・好きになろうと努力した2年間
・筋トレとの再会


まずは、専門性にのめり込む、です。


消防士、競輪選手、パーソナルトレーナー、という肩書きを並べてみると、小さい時から筋肉質で運動にまっしぐらな人を思い浮かべるかもしれませんが、

小学校の時は、家でテレビゲームをしているぽっちゃりした体型の男の子だったらしいです。

その時から、1つのことにのめり込む、集中スキルはかなり高かったそうで、
当時の山内さんは、当時大ヒットしていたゲーム、スマブラにはまり込んでいたそうです。

そこから、お父さんが社会人野球をしていたつながりもあって、中学の時は野球にハマっていたそうです。

そして高校入学後も、そのまま野球部かなと考えていたところ、
高校見学の時に、アメフトに出会ったのです。

当時、漫画で「アイシールド21」が流行っていた頃で、しかもその学校が、アイシールド21の中に登場する高校のモデルにもなったほどの有名高校。

漫画との出会い、高校との出会いがあり、さらに、アメフトというスポーツの魅力と出会い、山内さんは、高校の3年間をアメフトにはまっていきます。

この時、山内さんを魅了したアメフトの魅力が、「専門性」です。


アメフトにはそれぞれ専門性が別れたポジションが行くつもり、万能であることよりも、1つの芸に優れていることが求められるスポーツだそうです。

なので、アイシールド21に登場するキャラクターも、足が早い、体が大きい、パスが正確、などそれぞれの個性がはっきりしています。彼らの個性をうまく組み合わせながら、チームとして作り上げていく。

その専門性を磨くという考え方に、山内さんはどっぷりはまっていくのです。


ちなみに、この時に、山内さんはベンチプレスにも出会います。アメフトの名門校だけあって、トレーニングの設備もかなりしっかりしたもので、アメフト部員のベンチプレスのランキング記録などもあったそうです。

高校1年生の時に、先輩に言われて何もわからないままで、65キログラム。そのあと、高校3年生の時には、105キログラムまで上げれるようになっていたそうです。(ちなみに、パーソナルトレーナーの現在は、165キログラムだとか。)


山内さんは、アメフトのフィールドではラインという体を活かしてプレイする専門性を磨き、さらには筋トレという専門性にはまり込んでいったのでした。


次は、好きになろうと努力した2年間


山内さんの高校は、全国でもベスト16に入るほどのアメフトの名門校だっただけあって、引退が近づいてくると日本大学などの名門大学から監督がスカウトに訪れます。

そこで、多くの部員は、大学にスカウトされていくのですが、山内さんはそこに興味をあまり持てませんでした。

というのも、アメフト自体も楽しいと思っていたのですが、それ以上に高校の部活のメンバーと一緒にプレイするのが楽しいと感じていたのです。

そのため、大学に進学して別のチームでプレイすることにあまり興味が持てなかったのだそうです。


山内さんは、高校卒業でアメフトを辞めて、別の道へと進んでいきます。
それが競輪でした。

山内さんのお父さんが、競輪選手になってほしいという願いを持っていたそうで、それもあって、山内さんは競輪選手を目指すために、10倍以上の倍率をほこる競輪学校の入試へと挑む道へ。

と言っても、自転車未経験の山内さん。そのままではどうしたらいいのかわかりません。

そこで、山内さんのお父さんの友人の競輪選手のお弟子さんに、競輪を教えてもらうことにしたのでした。(競輪の世界は、師弟関係があるそうです)

お弟子さんと毎日自転車のトレーニングとして、湯河原のスポーツクラブから江ノ島までを往復。合計で120キロメートルほど走り続けて、タイムを上げたり、あとは基礎体力を上げていくのでした。


ちなみに、競輪学校の入試は、適正試験があり、背筋や垂直跳びなどの体力試験の他に、走行速度を測る試験などがあったそうです。

2年連続でその試験に挑んだ山内さんでしたが、試験のたびに緊張していたそうです。もちろん、試験に向けての緊張もあったのですが。

それ以上に、この試験に受かったら、そのあとは、自転車に乗る毎日がある。
そこへの緊張感というか、違和感というものが強かったのです。


というのも、父親のすすめで競輪選手を目指し始め、さらにはわざわざ弟子にまでしてもらい。合格しないと申し訳ないし、親の思いにも応えたいし。

そんなことを考えながらも、どうしても競輪が好きになれないまま、努力を続ける2年間だったのでした。

毎日自転車をこいで、湯河原から江ノ島までの往復しながら、その魅力にのめり込もうとし続けたのですが、どうしても好きになれず。ハマり切ることができなかったのでした。

もちろん、そんな気持ちでは試験もうまくいかず、2年の浪人の後に、諦めることとなったのでした。


最後は、筋トレとの再会、です。

競輪選手を目指すという夢を持つことができずに、諦めた後には、配送業の会社に就職するも社風に馴染めずに、退職。

また行き先を見失った時に、思ったのは親の思いだったのでした。

母親の公務員になってほしい、安定した仕事についてほしいという思いを受けて、消防士になるのでした。

消防士に就職した時は、ここで残りの人生を過ごし切ろうという覚悟で入っていったのです。


消防士のお仕事は、基本的に24時間勤務、24時間休みのサイクルを3回繰り返した後に、まる2日休むというリズムだそうです。お正月もお盆も関係なく、基本的にはこのリズムを繰り返します。

そして、山内さんの入った消防署では、この24時間勤務を、およそ13人前後のチームで共同生活のように過ごしていたそうです。

みんなで昼ご飯を作り、一緒に食べて、訓練や資材・車両の確認をして、ご飯の時間になるとみんなで料理をして、食べる。

そんなチームでの活動を繰り返していき、この生活はアメフトの部活の時のような集団生活でとても充実していたそうです。


そんな日々の中で、トレーニングをしている時に筋トレと再会します。

高校生の時には部活で筋トレにはまっていましたが、競輪選手の時には鍛える筋肉が違い、配送業の時にはそう言った心の余裕はなく、ずっと遠ざかっていた筋トレに、また出会ったのでした。

そして、自分の体をかっこ良くするという目標が、ムクムクと自分の中で生まれた瞬間でした。パワーラック(バーベルなどをするための器具装置)を購入し、実家の一室をトレーニングルームにしてしまいます。

思い立った直後には行動していたそうです。

このパワーラックを使って、自分の体をかっこ良くしようと進めていきます。その中で、筋トレをやれば、体は変わるという感覚を少しずつ強くしていきます。

さらには、教えてほしいという消防士の同僚に、体を変える方法などを伝えていくと、他の人にも自信が生まれていったのです。

その様子を目の当たりにして、山内さんは自分のやりたいことをはっきりと意識します。

思い立った後にはすぐに行動して、消防士を辞めて、パーソナルトレーナーとしての活動を始めたのでした。


山内さんは、ずっと自分のやりたいことではなく、両親に勧められた職業をやろうとしてきました。そして、それをやることが良いことだとも考えていたそうです。

しかし、今は自分のやりたいことへと突き進んでいます。自分の人生を他人に委ねない。


だからこそ、山内さんは、ただ、筋肉の鍛え方を伝えるパーソナルトレーナーではありません。メンタルの鍛え方や物の考え方なども伝えながら、自分の人生を他人に委ねない、その人がその人らしく生きられる方法を、伝えていっています。


2020.1.22 山内椋太さん
新百合ヶ丘にて



noteの最新情報などは、Twitterから!


ここまで読んでいただきありがとうございます。 この世界のどこかにこうして私の文書を読んでくれている人がいる。それだけで、とても幸せです。 サポートしていただいたお金は、また別の形で素敵な人へのサポートとなるような、そんな素敵なつながりを産んで行きたいです。