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【日本一周 京都・滋賀編8】 豊臣の慢心と滅亡:方広寺

 尾道の”自分の運転スキルが未熟ながら彼女とドライブしたら車内の空気が死んだ“話を聞きながら、血天井や俵屋宗達の白象図杉戸絵で有名な養源院を目指していたのだが、それと思って入った場所には絵のありそうな気配がなかった。

 おかしいと思って入り口を確認すると、そこには「法住寺」とあり、どうやら隣のお寺に入ってしまっていたようだった。これはついうっかりと頭をかきつつ、「それにしても、あんなに注意していたのにどうして見過ごしてしまったのだろう?」と不思議に思って歩いていると、案の定コロナによって硬く門扉の閉ざされた養源院が隣にあった。HPでは開いているとあったのに。トホホ。

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会えずじまいにおわった養源院

 養源院にしてやられた我々は、めげずに次なる目的地として方広寺を目指した。ここには徳川家康が大坂の陣において挙兵するきっかけに用いた「君臣豊楽」「国家安康」の文字の彫られた梵鐘があるのだ。三十三間堂から歩いて行ける距離にあるし、噂はかねがね聞いているから寄っておこうっと。

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 特に大々的に観光化されているわけではなく、鐘楼は隅の方にあった。うんうん、確かにありますね。文字の部分はわかりやすく白抜きされて、さらにチョークなようなもので白く囲ってある。徳川家康に関するエピソードとして尾道が雑学を披露してくれたが、いまいち内容を掴むことができなかった。大方八百長だったようなことはなんとなく理解できた。

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 鐘楼の天井部には思いの外美しい絵が描かれており、不思議に思って説明を読むと、以前は伏見城の女性用化粧室に使われていた天井板を再利用したものらしい。だから、天女の絵が多いのか。中には人面の鳳凰のような絵も描かれており、唐物趣味が伺えた。方広寺は鐘さえ見られれば満足でっせ。

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 朝の6時台にマックで食べてから何も口にしていないものだから、そろそろお腹が空いてきた。気づけば昼過ぎとあれば、お昼ごはんを食べないわけにはいかない。京都へ来る前は好物の鰊蕎麦を本場の松葉で食べようかと話していたが、尾道から「あれは一回食べれば満足」と言われて泣く泣く諦めた。というわけで、さきほど三十三間堂へと向かう道中に見つけたうどん屋にでも行こうかと話がまとまり、早速歩いていった。


 てくてく歩いていると、豊臣神社の向いに「耳塚公園」という何やら秀吉の朝鮮出兵を彷彿とさせる公園があった。おや、と思って進んでいくと、予想的中。奥には耳塚があった。


 小学生の頃、歴史上の人物の漫画シリーズで豊臣秀吉の巻を読んだことがある。その中で、朝鮮出兵における部下の戦果を、塩漬けにされた朝鮮人の耳や鼻の入った壺で把握するというシーンがなんともポップに描かれていて、そのブラックユーモアに衝撃を覚えた記憶がある。

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 眼前の耳塚はそんな壺が2,30個で済むようなサイズ感ではない。悠々500個くらいは埋葬されていそうなスケールである。塚の前には今でもお花がお供えされていて、400年以上たった今でも鎮魂を願う思いは受け継がれていた。ただ、耳塚の真横の公園を耳塚公園と命名するセンスはなんとも理解し難いように感じられた。そのおかげで気づけたのもあるけど。

明石

・ナンセンスなネーミング

 徳川治世を語るうえで欠かせないのが、ここ方広寺である。梵鐘に刻まれたかの有名な”例の文字”さえ鑑賞できれば十分という心持でいたが、まさか鐘楼の天井画に惹かれるとは全くの予想外であった。3×3に区画された天井の各ブロックには天女と思しき姿が描かれている。それがまた経年劣化をあまり感じさせない鮮やかな色使いで描かれているのである。
 こんなの魅力を隠し持っていたとは...観光スポットとしてもっと有名になってもいいのにな。

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「国家安康」「君臣豊楽」の字はご丁寧にハイライトされている

 手早く方広寺見学を終えた我々は、三十三間堂に向かう道中で目星を付けておいた鴨川製麺所へ歩を進めた。
 と!そこで「耳塚公園」なる不気味な名を冠する公園を偶然発見した。MIMIDUKA...どこかで聞き覚えのある言葉である。そうだ、高校の日本史教師の授業プリントで紹介されていたやつだ!こんな恐ろしいものの隣に、公園という純粋無垢な少年少女の憩いの場が設けられていることに驚愕した。日本が犯した罪を風化させないという意味合いで今日まで残されているのであろうが、公園の名前にしなくても...と行政のナンセンスなネーミングに煩慮するのであった。

尾道

・メンバー
明石、尾道

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