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短編アーカイブ「長いコートのあなた」
川沿いの道を歩きながら、
「なんか楽しいことないかなあ」
とデート中に彼女が口にしたので、このデートは楽しくないのかなと、ぼくは思う。
そんな気持ちを口にはせずに、「楽しいことかあ」とぼくは返している。無意識に。6年目を迎えたぼくらは、そういう感じだ。
「楽しいことって何かをするっていうことじゃない気がしてきてるんだよね、最近」
と彼女が言う。
ぼくはポケットに忍ばせておいた小さなチョコを、彼女に差し出す。それを彼女は「ありがとう」と言って受け取る。ぼくが彼女をまだ好きなのは、こんなところだなとぼんやり思う。
「何かをするんじゃないとしたら、どんなことが楽しいの?」
「そうだなあ、『ここにいる』って思うときとかが楽しい」
ここにいるっていうときが楽しいってことは、今は「ここにいる」っていう感じがしないということか。これはもしかして別れ話なのだろうか。だとしたら、ちょっと困るな。唇についたチョコの跡を、いいなあって思ってるとこだから。
「でもそれは、何かをするから感じられるものではないの?」
ぼくはもう一つ、ポケットのチョコを取り出す。それを彼女がうらめしそうに見ているのに気が付く。
「あっ」
長いコートの影に尻尾が付いている。
見間違いかと思って、彼女のコートを見渡してみる。確認したけど、尻尾はない。
「どうしたの?」
「あ、いや」
何かの部分が尻尾みたいに見えたのかな。ぼくはそう思い直して、彼女にチョコを渡す。
「ありがとう」
気になってまたコートの影を見てみると、やっぱり尻尾がある。それが犬みたいに、左右に振れている。
「かわいい」
思わずぼくは声を漏らしている。
「わたしのこと?」
ここで「そうじゃなくて」と言ったら、ぼくの人生はおそらく変わる。それがぼくにとっていいことかよくないことはわからないけれど、今は「変わらなくていい」と思う。
だから「うん」と心から頷いた。
尻尾が揺れている。
「楽しい」
と彼女が笑っている。
「ここにいるって感じがする」
ぼくらは何かをしたのだろうか。何かをしたのかもしれないし、していないのかもしれない。だけど、ここにいるって思う。チョコの付いた唇で、彼女はぼくにキスをした。ぼくに尻尾が付いていること、彼女も気付いただろうか。
(2021)
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