『自由貿易はなぜ必要なのか』の刊行はなぜ必要だったのか?
新型コロナウイルスが世界中で猛威をふるうなか、日本の貿易収支は3カ月連続(4~6月)で赤字になりました。いったん落ち着きを見せていた米中貿易戦争も再燃の兆しが出始めています。貿易に対する関心が高まりつつある中で、先月発売となった『自由貿易はなぜ必要なのか』の著者の椋寛・学習院経済学部教授に、今後の自由貿易のあり方をどのように考えていけばよいのか、お話をうかがいました。
1 「振り逃げ」による刊行?
――本書が刊行されて、今のお気持ちは、いかがですか?
椋:野球でたとえると、三振をしたものの、振り逃げで出塁したような気分です。
――「振り逃げ」ですか?
椋:本書の企画が最初に持ち上がったのは、2014年ですが、当時の日本はTPP(環太平洋パートナーシップ協定)の議論が盛んに行われていました。普段は影が薄い貿易が一躍脚光を浴び、TPPに反対する書籍が多数出版されるなか、本書はそのアンチテーゼとなるはずでした。しかし、執筆が進まないうちにTPP締結は合意され、人々の興味も薄れてしまいました。まずは、ワンストライク。
2017年になり、トランプ大統領が誕生し、TPPからの米国の離脱、北米自由貿易協定(NAFTA)の見直し、一方的な関税の引き上げなど保護主義的な措置が多く発動されました。それに端を発して米中貿易戦争が勃発し、世界の自由貿易体制は大きな危機に直面することになりました。本書を出版し、多くの人に貿易理論の教義を広める絶好のチャンスでした。しかし、私の周囲で不測の事態が生じたこともあり、またしても好機を逸してしまいます。ど真ん中のホームランボールを見逃し、ツーストライク。
2019年末、米中貿易戦争は少し落ち着いたものの、本書の意義はまだあると考え、原稿の最終的なとりまとめをしました。いよいよ出版間近、ヒットではなくとも、フォアボールでの出塁といったところでした。ところが、今年に入り、新型コロナウイルス(COVID-19)の流行が世界を直撃し、もはや「自由貿易か、保護貿易か」などと言ってはいられない状況となってしまいました。時は得難くして失い易し。。。予想外の変化球により、スリーストライクで三振です。
しかし、期待を大きく裏切ったにもかかわらず、担当編集者をはじめ有斐閣の方々は私に刊行のチャンスを引き続き与えてくれました(そのご厚意に、深く感謝しています)。こうして、本書は三振後の「振り逃げ」により、ようやく刊行できました。
2 新型コロナウイルスが貿易に与えた影響
――なるほど。。。本書の企画書を見返すと、「TPP問題が大きく取り上げられる中で、貿易自由化を冷静に見つめなおすことのできる有意義な一冊となるであろう」とありました。刊行予定は遅れてしまいましたが、「貿易自由化を冷静に見つめなおす」という部分は、今もなお重要な視点ではないでしょうか?
椋:そうですね。現在のような状況だからこそ、自由貿易の必要性を冷静に考える必要があるともいえるかもしれませんね。COVID-19の感染者の拡大、そして都市封鎖や移動規制などのロックダウンは、ヒトやモノの流れを大きく変化させ、貿易も例外なく影響を受けました。
本書には含められませんでしたが、私自身も、日本貿易振興機構・アジア経済研究所の早川和伸氏とともに、COVID-19が貿易に与える影響の分析を行っています。2009年の世界金融危機の際にも、世界貿易は一時的に大きく停滞しましたが、貿易の減少は主に需要が減退するショックに起因していたため、その後の回復も早かったのです。しかし、COVID-19の場合は、需要ショックに加えて、モノが生産できない、必要な部品・材料が調達できないという供給ショックも世界中で同時多発的に生じているため、より大きな影響を与えると考えられています。
――具体的には、どれくらいの影響が出ているのでしょうか?
椋:われわれの分析結果によれば、COVID-19の蔓延は、前年の第1四半期と比べて、日本の輸出を約109億ドル(1兆1455億円。減少率5.7%)減少させ、輸入を約115億ドル(1兆2075億円。6.4%)減少させる影響がありました。米国はCOVID-19による減少額がより大きく、輸出と輸入をそれぞれ381億ドル(9.8%)と430億ドル(7.2%)減少させました。中国では、減少額は輸出と輸入についてそれぞれ639億ドル(9.8%)と300億ドル(6.3%)でした。なかでも輸出国での感染拡大、特に途上国での感染拡大が貿易を大きく減少させており、需要ショックよりも供給ショックがより重要であることが示唆されます。
こうした貿易の突然かつ急激な減少は、「医療安全保障」という言葉に代表されるように、重要品目の輸入依存に警鐘を鳴らしています。いつもなら当たり前に手に入るマスクや医療品が外国から届かなくなり、国内で不足することになります。私たちは、それまでは当たり前にあった貿易が、突如ストップするかもしれないことを、目の当たりにしました。
一方で、逆に国内生産に依存しすぎると、国内で供給がストップするというリスクに対応できなくなります。むしろ、各国が輸出規制などにより重要品目を囲い込まないよう、自由な貿易体制を保つことも、「安全保障」の面からは重要といえます。今回のCOVID-19の蔓延により、貿易に頼ることのリスクを感じた人もいれば、貿易の重要性を認識した人もいるでしょう。経済取引の重要性が意識される今だからこそ、自由貿易の必要性を冷静に再検討し、危機に強靱な経済体制を構築するきっかけにするべきではないかと思います。
3 自由貿易の必要性を冷静に考えるためのポイント
――ありがとうございます。最新の状況を知ることができて、とても勉強になりました。それでは、自由貿易の必要性を考えるうえで重要となるポイントについて説明していただけますか?
椋:自由貿易の必要性を考えるうえで重要な点は、自由貿易の推進と対立する主張とはどのようなものであるかを明らかにすることだと思います。本書の関連する章に触れつつ、少し整理して説明してみたいと思います。
自由貿易はさまざまな貿易障壁が取り除かれ、貿易に対して政府が介入せずに自由に取引が行われる状態を指しますが、その対義語である保護貿易については、いったいどういった状態を指すのか判然としません。自由貿易に懐疑的な人でも、江戸時代の鎖国政策のような外国との貿易の遮断を望む人はおそらく皆無でしょう。貿易自体は認めつつも、外国からの安価なモノやサービスの輸入に関して、政府が介入し国内産業を保護することを是とするのが、保護貿易を支持する人々の基本的な考えだと思われます。
では、現存する関税などの保護政策は、果たして国内産業を適切に保護する手段として機能しているのでしょうか。「保護貿易も必要!」という人であっても、「どういった状況で、どのような手段で、どの程度の水準まで保護政策を行うべきか」と問われれば、容易には答えられないのではないでしょうか。
例えば、将来の産業を育てるために保護するという、説得力のある目的で実施される政策であったとしても、目標の実現は困難かつ不確実です(本書第8章を参照)。輸出が「善」で輸入が「悪」とされ(第1章)、貿易赤字が問題視される(第2章)傾向があるのも、「国内産業を保護する」という、ある種のパワーワードが人々を惹きつけるからだと想像できます。しかし、そうだからこそ、自由貿易の弊害は喧伝されるものの、逆には見逃されてきたのではないでしょうか。輸入自由化に賛成する人々であっても強い意思表明をしないのは、保護貿易の弊害が意識されにくいことが一因になっていると考えられます(第6章)。
逆説的ですが、保護貿易政策のあり方を考えるためには、「自由貿易がなぜ必要なのか」を認識したうえで、保護貿易のメリットだけでなくデメリットを比較考量することが必要であるといえます。特に、貿易政策には多様な種類のものがあり、その効果も異なります(第7章)。サービス貿易も盛んになっており、国内の規制等もサービス貿易に影響を与えます(第5章)。さらに、国境を越えた国際分業体制が構築され、モノの生産に多数の国の中間財やサービスが多く投入されているもとでは、輸入制限政策は逆に国内産業に打撃を与えてしまうおそれがあるのです(第3章)。
――米国でもそうですが保護貿易を正当化する要因として、雇用の問題もよく取り上げられると思いますが、実際のところはどうなのでしょうか?
椋:実は、輸入の増加や企業の海外生産の拡大が国内の雇用に悪影響を与えるとは限らず、実証的にもその関係は曖昧なのです(第4章)。「輸入を減らせば国内雇用も保たれる」という単純なメカニズムは、もはや成り立たないといえます。自由貿易が国内産業の成長や雇用の増大をもたらす側面があることもきちんと踏まえることで、保護貿易の有効性をきちんと議論することができます。
一方、自由貿易の推進も容易ではありません。貿易自由化の手段も複数あり、どれも一長一短があります(第9章)。例えば自由貿易協定(FTA)を締結し、見かけ上は貿易障壁を撤廃しても、実際に貿易がより自由になるとはかぎらず、自由貿易のメリットが十分に得られるとは限りません。
貿易の問題を「自由貿易」対「保護貿易」という単純な対立軸で捉えるべきではなく、また望ましい状態が両者の間にあるともいえません。貿易の問題は、見かけよりもずっと複雑なのです。自由貿易と保護貿易のどちらの立場であれ、さまざまな要因を考慮してそれらを実施しなければなりません。「自由貿易はなぜ必要なのか」を考えることは、その出発点となるのです。
4 本書の刊行を一番必要としていたのは筆者自身?
――自由貿易を考えるうえで重要なポイントを簡潔にまとめていただいて、ありがとうございます。先生のお話をお伺いすると、やはり本書の刊行は、振り逃げで出塁というよりも、ノーヒットで出塁できていなかったバッターが、最終打席にベンチの信頼にこたえて逆転サヨナラ・ホームランを打ったという方がふさわしいのではないかと思いました。
椋:ありがとうございます。読者の皆さんに、どのようにジャッジされるのかはわかりませんが、本書の刊行を一番必要としていたのは、私自身ではなかったかと思います。
本書のあとがきにも書きましたが、私が国際貿易の研究をはじめたのは勘違いがきっかけであり、私の活動は最初から矛盾を抱えたものでした。実際、私は比較優位の概念を頭ではわかっていても、それとはかけ離れた行動を続けてきたように思います。「貿易は争い事ではない」と周囲に説きながらも、他者に対して攻撃的で、分業をせずに自分一人で何もかもやりたがってきました。また、自分の能力が絶対劣位にあることに絶望し、「心の閉鎖経済」とも呼ぶべき状況にずっと陥っていたように思います。自分が信念を持って研究していることと、普段の行動とのねじれを、ずっと解消できずにいました。
思えば、家族をはじめ多くの人が手を差し伸べてくれるなか、私はそれをずっと振り払いながら一人で頑張ろうとしてきたように思います。しかし、本書の執筆を通じて「自由貿易はなぜ必要なのか」をあらためて整理することにより、手を離さずにいてくれた周囲への感謝の気持ちが溢れてきて、周りと協力する姿勢が自身の行動にも表れるようになってきたと思います。
自由貿易はなぜ必要なのか——本書の帯には「それを考えることが自分を変える好機となる」と書かれています。本書の刊行を最も必要としていたのは、誰よりも私自身だったのです。
国際貿易論をはじめとした経済学は、決して易しくはありませんが、人に優しい学問であると思います。人々が困難に直面したときに、皆にとってよりよい道を探るためのヒントを与えてくれます。世界中の人々が困難な状況にある今だからこそ、貿易により他国と繋がることの意義を再考する必要があるのではないでしょうか。もしも本書が読者に何かしらのきっかけを与えるものになれば、望外の喜びです。
*今回の記事を再編したものが『書斎の窓』9月号に掲載予定です。
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