『未来へ繋ぐ災害対策』出版記念シンポジウム報告 その2
昨年末に刊行された『未来へ繋ぐ災害対策』の出版記念シンポジウムが12月26日に行われました。シンポジウムでは、工藤尚悟先生(国際教養大学)、三上直之先生(北海道大学)、武藤香織先生(東京大学医科学研究所)、矢守克也先生(京都大学防災研究所)から書評コメントをいただき、執筆者がリプライを行い、最後に全体で総合討論を行いました。
シンポジウムでの議論の様子を6回の記事に分けてお伝えいたします(第2回目)。
書評コメント②「科学と政治と社会の協働における科学者の役割とは」(三上直之)
――工藤先生、ありがとうございました。では続きまして、北海道大学の三上直之先生にコメントをお願いできればと思います。三上先生は2022年に『気候民主主義』(岩波書店)という本を刊行されていて、『未来へ繋ぐ災害対策』の中でも重要な文献として参照されています。それでは三上先生、よろしくお願いいたします。
三上:北海道大学の三上直之と申します。このたびは松岡先生をはじめとする著者の皆さま、出版元の有斐閣の皆さま、ご出版、誠におめでとうございます。今日はお招きいただきましてありがとうございました。
私の専門は社会学で、とくに環境社会学とか科学技術社会論という分野をやっています。中でも市民参加の研究が自分のテーマでして、環境政策とか、新しい科学技術のガバナンスを、どうやって人々が参加をして、実質的な議論とか熟議に基づいておこなっていけるか。そのための方法論を研究している者です。そして、先ほどご紹介いただき、また今回のご本の中でも第4章で取り上げられている気候市民会議という、くじ引き式の気候変動についての市民会議の研究を最近はとくに夢中になってやっています。実はその研究のために、いまイギリスのニューカッスル大学に来ていまして、1年間ここで研究をしております。イギリスまで本を送っていただきまして、先週無事に届きまして、読ませていただきました。ありがとうございました。今日はいくつか感想などを述べさせていただければと思っています。
まず全体を読ませていただいて、この本の特徴だと感じたことが二つありました。一つは、この本では地震・津波、それから原子力事故、感染症、気候変動という、四つの大きなテーマと、それからコラムでは豪雨が地域に与えるリスクというテーマも取り上げられていますけども、これらの題材を、感染症とか気候変動も含めて、「災害対策」というキーワードで横串に刺して論じているという意味で、非常にユニークな試みだと思いました。生活者としての私たちがこうむる可能性のある災害への対策という視点で、これらのリスクを一つのテーブルに乗せて扱っているという意味で、より多くの読者に届く可能性を持った本だなと感じました。
もう一つ、この本の大きなメリットだと感じましたのは、地震・津波にしても、原発事故にしても、新型コロナにしても、リスクをめぐって丁寧な議論をおこなって、ガバナンスに活かすための仕組み、対話と学びの場や学習の仕組みが結局のところ日本社会の中にきちんと組み込まれていないことが、問題の根幹にあるということを改めて横断的に示している点です。
今回読ませていただいて、著者の皆さんとか、参加者の皆さんと議論してみたいと思った点が実はいろいろとありますが、ここでは時間も限られていますので議論の取っかかりになりそうな点をいくつか挙げさせていただきます。とくに第4章の気候変動災害の章で、松岡先生が気候市民会議のことを取り上げられていて、私も今それについて研究していますので、手前勝手で申し訳ありませんが、それに関連して4点ほどコメントをさせていただければと思います。
ちなみに、この気候市民会議といいますのは、一般からくじ引きで選出した数十人から百数十人くらいの市民が数週間から数カ月かけて気候変動対策について議論する会議です。集中的に議論しまして、その結果を国とか地方自治体の気候変動の対策に用いるという、そういう市民会議の仕組みです。
第4章では、世界に先駆けてイギリスの議会が主催した気候市民会議の事例が取り上げられています。その中で、意義と並んで、こういう一過性の取り組みには限界があるということも指摘されていて、なるほどと思いました。一つ目は、その点に関してのコメントです。実は、この本で直接取り上げられているイギリスの事例というのは、おこなわれたのがもう約3年前でして、2020年の前半になるのですが、その後、この3年足らずの間に西ヨーロッパのおよそ10カ国で国レベルの会議がおこなわれていて、さらに自治体レベルになると、イギリスを中心に、ヨーロッパの50以上のまちで、この気候市民会議という仕組みが導入されて、実施されてきています。この過程で、2020年のイギリスの会議が残した問題点や課題に対しても、いかに一過性ではなくて実効性のある形で気候市民会議のやり方を使っていくかという改良がおこなわれています。それこそ専門家と市民と政府関係者の対話を通じた、それ自体が学習ですけれども、これがものすごいスピードでヨーロッパではなされています。こういう新たな展開をどう評価するかということも、このご本の枠組みを使ってさらに具体的に議論していけると発展していくのではないかということを思いました。
この点の補助線になると思ったのが、第4章の139ページあたりの議論です。ここでは、技術イノベーションと社会イノベーションという二つのイノベーションの重要性について述べられています。実はこの気候市民会議のような仕組みの活用によって、社会的な意思決定のあり方をより参加的で熟議的なものに転換していくというのも、社会のイノベーションの重要な側面だと思います。実際に民主主義の議論では、こういう取り組みを民主主義のイノベーション(democratic innovations)と呼ぶようになっていますので、気候市民会議そのものがここで社会イノベーションと呼ばれているものの一部だということを指摘しておければと思います。
二つ目は、多様な専門家がバランスの取れた情報提供をして、それに基づいて学習して議論するという点に意義があるということが強調されていることです(第4章,133ページ)。これはとても大事な点ですが、ただ、気候市民会議の特徴としては、このことに加えて、この会議の正統性を担保する仕掛けとして、参加者をくじ引きで選んで、社会の縮図をつくって議論をするということですとか、それから、その参加者が十分にファシリテートされた本格的な熟議をおこなうというポイントもあるわけです。ですから、気候市民会議が持っているこういった専門知の導入以外の仕掛けについて、ここで議論されている、科学と政治と社会の協働という観点からどう評価するのかをぜひ議論してみたいと感じました。
気候市民会議を論じた部分以外のところにも広げながら、三つ目に移ります。第4章の気候市民会議以前のパートでは、科学者の役割の議論として、誠実な政策仲介者(オネスト・ブローカー:honest broker)としての関わり方について言及されています。これは科学者自身が政策選択肢を積極的に提示して媒介するというあり方ですけれども、これがとくに強調されているように拝見しました。それでは、イギリスの気候市民会議における専門家の関与はどうだったのか、どう評価されているのか。オネスト・ブローカーとしての専門家の関与だったのかどうかということが問題になるかと思うのですが、私としては、政策選択肢を提示して、積極的に仲介するというところまで専門家は必ずしもやっていなかったのではないかと思います。むしろ、ロジャー・ピルケ・ジュニアの議論でいうと、とくに中心になった専門家の役割は「科学の仲介者としての科学者」(science arbiter)といわれているものに近かったのではないかという印象を持っています。
実はそんなことを考えましたのは、これは松岡さんが書かれている別の章、第8章はこれ自体が福島において対話の場の実践の非常に貴重なドキュメントなんですけども、その最初の方で科学技術論のハリー・コリンズとロバート・エヴァンズの議論を参照されていたからです。コリンズたちの、いわゆる選択的モダニズムの議論では、これは明らかにオネスト・ブローカーではなくて、アービター、科学の仲介者としての科学者という、やや禁欲的な科学者を推す議論がなされているはずです。本書を拝読して、科学と政治と社会の協働における科学者の役割について、やや旗幟鮮明でないところもあるのかなと感じまして、このあたり、どんなふうに見ていらっしゃるのかをお伺いできればと思いました。
最後に四つ目を述べて終わりたいと思います。第4章で紹介をされている気候市民会議のような手法とか制度が、日本における、とりわけナショナルな気候変動政策とかエネルギー政策にどのように活かせるのか、活かせないのかというあたりのことです。これを議論してみたいというふうに思いました。といいますのは、これは第2章で寿楽さんが原子力災害を論じられている中で、原発のような破局的リスクを持つ技術を使い続けることが適切なのか、無理に向き合うよりもリスクそのものを排除することが正しいのではないかという、根源的な議論を公論(パブリックな議論)に十分付す必要があるというように主張されています。こういう根源的な議論をするうえで、気候市民会議のような取り組みにどういう可能性や課題があるのかということも議論していければと思いました。
私からは以上です。ありがとうございました。
書評コメント③「差し伸べられた手をパンデミック対策は本当に握り返せるのか」(武藤香織)
――三上先生、ありがとうございました。続いて3人目は、東京大学医科学研究所の武藤香織先生からコメントを頂戴できればと思います。武藤先生のご専門は医療社会学で、新型コロナウイルス感染症対策専門会議の委員も務められております。事前の顔合わせの打ち合わせの中で、本書を読んですごいビンビンくるものがありましたというふうな感想をいただいていたので、今日どういったコメントをいただけるのかなというのをすごく楽しみにしておりました。武藤先生、よろしくお願いいたします。
武藤:ただ今ご紹介にあずかりました、東京大学医科学研究所の武藤と申します。本日はお招きいただいてありがとうございます。最初に寿楽さんからお誘いいただいたときはちょっと腰が引けていたのですが、実際本を読ませていただいて、今日サークルに混ぜていただいて嬉しく思っています。
私は感染症対策、中でも今はCOVID-19の対策に直接関わっている立場として、災害対策から「差し伸べられた手をパンデミック対策は本当に握り返せるのか」ということを感じたので、こういうテーマにいたしました。
自己紹介しますと、私の専門は、ご紹介にあったように医療社会学です。人を対象とする研究の倫理とか、あとはすごく最先端のゲノム医療とか再生医療といったものの倫理的・法的・社会的課題がテーマです。中でも、こちらの業界では「患者・市民参画」と言っているものに取り組んでいます。松岡先生のご担当章でも「素人の専門家モデル」として紹介されていますね。素人が素人の知を活かして専門家と協働するということを、なんとか医学研究のほうでも後押ししたいと思っております。
災害との関係では、私は阪神・淡路大震災のときはもう大人でしたけれども、何もすることができなかったことがずっと悔悟の念としてありました。東日本大震災のときに東京都民ボランティアの募集があって、何か少しでも貢献できないかと思って第1期メンバーとして応募をしたら、成り行きで団長を任命されました。宮城県に派遣されて、自衛隊の元幕僚長の方とか、見ず知らずの「ガチボランティア」の人たちと一緒に、支援体制の構築を考えたり、泥かきや畳出しなどの作業を覚えました。その過程で、ボランティアのための安全衛生に関する研修や資料がないことに気づき、保健学専攻の大学院を出ていたので、ガイドをつくって都庁に提案したりしました。でも、災害について自分で研究をしたことは全然ないんです。
感染症に関しても研究してきた経緯はないのですが、2020年の2月から、政府、それから東京都などの対策のアドバイザーに入りました。女性であることや、倫理的助言をする立場としてなんとなく放り込まれたという印象を持っています。ですので、対策に関わる専門家の中でもマージナルな立場にいる自分は一体何をしたらいいのかということはこの本を読んで考えさせられました。
COVID-19対策に関して私が入っている組織では、毎週の感染状況とか、医療の逼迫状況などのリスク評価がほぼ毎週おこなわれています。また、緊急事態宣言とかまん延防止等重点措置とかを発出する委員会はまた別にあります。さらに、社会経済活動とのバランスを考えて施策を提案する新型コロナ分科会というのがあります。政府対策本部をいつまで置いておくのかについては、緩和期の今、大きな課題です。私はアドホックな組織に入っているのですが、それら以外にもワクチンや薬事など常設の審議会があり、それらの知と意思決定をすべて統括している人がいるのか心配になるくらいです。
それで、この本に戻りますが、この本を読んでパンデミック対策に関わる者が学ぶべきことがたくさんあるのではないかと思いました。というのは、災害の対策を未来へ繋ぐという点に独創性があると思うのですが、それがパンデミック対策においてめちゃくちゃ必要であるということです。約10年前に新型インフルエンザウイルスの流行がありましたが、そこの教訓はほとんど活かされずに今日来てしまったことに思いを馳せました。さらに、境界知作業者とか対話の場、学びの場が、災害において重要視されていますが、パンデミック対策ではほとんど議論もされていないと感じます。ですので、今回津波、地震、原子力、豪雨、あと気候変動に並んで、パンデミックを並べてくださったこと自体が画期的であるので、パンデミックに関わる人は絶対読むべきだなと思いました。あとは、個人的にこのめくりやすくて柔らかくて表紙もかわいくて、心が落ち着くなというふうに思っています。内容がけっこうシビアなことを書いてあるんですけど、ほっこりしたデザインも素晴らしいと思いました。
とくに共感した点は、専門家の立ち位置の難しさをしっかり書いてくださっていたということです。人々が持つ専門家像と、その不満・不安を受け止めてしまう専門家、あるいはそれから逃れようとする専門家、専門家批判をする専門家とか、いろいろな人がいるのですが、やっぱり専門家は不確実性をなくせないということについての共通理解をどこまで人々に持ってもらえるのかが、この本が求めている未来の姿の成否をすごく分けるような気がしています。皆さんがどう感じておられるのかというのは伺いたいところです。
寿楽さんの第3章では、日本におけるソーシャル・コンパクト、つまり科学が災害について「確たる知」を与えるという考えのバージョンアップがなされたのかという問いを投げておられます。COVID-19対策に関わった専門家は、新型インフルエンザ対策当時よりも前に出て対策にあたり、それは功罪両面あるわけなのですが、だからといって、確実な知を持っているから前に出たわけではないというところですね。人々がその点をどう理解されるのかについては、気になるところです。
それから、この本では、未来へ繋ぐためのカギを対話と協働に求めていらっしゃると理解していますが、パンデミック対策では対話と協働を信じている人が限られているように感じてきました。パンデミックにおいては、多くの為政者も行政担当者も専門家も、この対話と学ぶ場の価値というのを信用していないのではないかと思います。それはなぜなのかなと考えたときに、公衆衛生学という学問領域の特性が浮かびます。健康に生きることに至上の価値を置いて、かつ、健康を目指す行動変容を達成させるまでが専門家自身の評価対象にもなるような特性があります。がん検診の促進や禁煙の推奨など、病気の予防啓発などを見ていても、人々との対話と協働がなければ、主体的に健康に対する意識をもって行動変容をしてもらえないことは、公衆衛生学の専門家も十分承知していると思います。最近、様々な分野で、数理モデルによる予測とかシミュレーションが活躍していますが、こうした技術が活用される場面では、専門家が対話や協働を軽視しやすい傾向がある気がしています。他の領域ではどうなのでしょうか。もちろん、パンデミック対策はまだ終わっていないので、常日頃からの地域住民との対話と協働といった発想には思いが至っていないという意味では、他の災害対策よりも遅れていると感じるところです。今後、COVID-19対策の大規模な緩和が進んだら、少し変わってくるかなと期待しています。
本日、議論したい点として、あらためて三つお話しして終わりたいと思います。1点目は、パンデミック対策において、私たちの分野では公衆衛生倫理と呼んでいる問題に触れたいと思います。公衆衛生倫理の考え方では、他者危害の防止や被害の最小化といった原則が、採用される公衆衛生の政策に反映されているかどうかを検討します。これを政策決定者に助言する場合、専門家助言のなかでも科学的助言とは分けて、倫理的助言と位置付けられますが、COVID-19対策ではうまくいかなかったと思っています。これまで災害対策においては、こうした倫理原則からの助言の介入余地があるのでしょうか。地震や洪水に際して、科学的な検証や助言があるとは思いますが、政治が意思決定するときに、倫理的な原則から見てどうなのかを検証する余地があるのか、それは可能なのかという点です。
それから、2点目は、今回の少なくとも私が経験したCOVID-19の日本での対策においては、専門家と政治家の間に行政という大きな壁を感じました。日本はステークホルダーたる行政の役割が、どこの分野でもけっこう大きいのではないかと思うんです。専門知がどれくらい尊重されるかは、その時々の行政担当者と政局にすごく左右されたというのが、この3年間、私が横で見てきて思うことです。行政担当者の力がなければ、施策は実行できませんので、協力し合うことは大切だと思います。そして、専門家の見解を聞いて政治家に政策決定をさせ、これを実現した形にしたいと、行政担当者は考えています。しかし、それがゆえに、政治家が受け止められなさそうだと思った助言、行政として実現できない助言、社会的な影響力や議会対応に跳ね返ってきそうな助言については、あらかじめ察知されて、それが表沙汰にならないよう、事前調整と称して専門家側に介入しているように見えます。他の災害においてはどうなのでしょうか。とくに行政担当者に、この「未来へ繋ぐ災害対策」の未来像の中でいかに役割を果たしてもらえるのかというのはけっこう難しそうな気がしました。
最後に、その行政担当者からは、エンパシーのある対話や、学び合いの場づくり、丁寧な対話、熟議が実現したとして、それが良かったかどうかというのは一体誰がどう評価するのかと、よく言われます。が、そういう話に問題を矮小化されたり、回収されたりする恐れがないのだろうかということをお伺いしたいと思います。医学研究のほうでは、患者・市民参画と呼ばれる活動の黎明期にあり、これを導入してどれくらい良いことがあったのか、定量的に示せとか、どういう評価指標があるのかを示せとかいう話になりやすいためにお尋ねしています。そういう話に回収されてしまうことのリスクを皆さんはどのくらいお感じでしょうか。対話と協働は当たり前だよね、だからやっていくんだという価値自体が地域に根付かないといけないなという危惧を持ったというところです。
以上です。ありがとうございました。
(以下、その3へ続く)
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