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同情って悪い意味なのかどうか

前回、有料記事になる前に旦那の浮気のことまでを書きましたが、サレ妻だのなんだのと同情を集めるつもりもなく、大騒ぎもしていませんので一応ここに追記しておきます。
むしろ今の私は自分と子供たちの事だけを考えて前向き。
悩みもあるけど、それはみんな何かしら悩んでて同じでしょうという事で。
C'est la vie. ですよね。これからの人生もまだまだあるよ。
前にも書きましたけど我が身を大切に。楽しまなきゃ損だしね。

twitterなどでサレ妻さんのアカウントをチラ見したりしていた時期もあったのですが、そこでお決まりに絡まれたり炎上している内容が
「奥さんの側にも原因があるだろう」
だとか
「同情を集めたいだけだろう」
とか
「いかにもそういうところがサレ妻」
だとか。
なんていうんでしょう、こういうのをチラ見しただけでも、世の中に希望が見出せなくなってしまいそうなメンタルレベルにぐっと引っ張られそうになって、おっとっと自分の世界に戻ろうってなります。言論の自由だとか言いながら暴言を吐く輩が一定数いるのは仕方ないと分かっていても、知らない他人にそこまで言えるあなたの思考能力及び創造力の欠如を問いたい。問わないけど。
ニュースのコメント欄とかもひどい。言いたい放題ってほんと怖い。そんなの道端の落書きぐらいに思っておいた方がいいんだけど、そんな考えの人がたくさんいる事に驚愕!てなことになりがちなので気をつけないといけません。
ほんと気にしちゃダメ。

とはいえ私も世間で言う「サレ妻さん」というやつではあるのですが、自分がなってみて気になりだしたのが「同情」という言葉。なんとなくだけど、あんまりいい意味じゃない気が。されて気持ちの良いものでもないのが一般的な解釈でしょうか。「かわいそうに」とか「ひどいめにあったね」とか、同情ってこういう言葉がついて来そうな雰囲気があるから嫌なのかな?意味としては、相手の気持ちを自分の事のように共に感じる事。とあるので、英語だとエンパシーとかシンパシーとかそういう事ですよね。そうやって考えると、そんなに悪いものでもない気がするけど。軽々しく使うから同情されたほうも嫌だなって思うのかな。

ひとつ昔から気になっていて、自分の中で気を付けていることがあって。つらい事や悲しい事、経験を誰かが話すと、自分の経験談を話して気持ちが分かるよと言う人がすごく多い。でもよくよく聞いてみると、ちょっとニュアンス違ってたり、いつの間にかその人の話に変わってたり、果てには自分の話じゃなくて家族や友人の話を持ち出して同調してたりするから、それって気持ちが分かるのとはちょっと違うんじゃないの?なんて事を、横で聞いていて気になって気になって仕方なかった時期がありました。同情しようとして間違ってるパターンでしょって。
自分のつらい話を誰かに聞いてほしい時って、とにかく自分の中に置いておくのがしんどくて放出したいっていう気持ちが強いんじゃないかなと。辛ければ辛いほど、きっと頭おかしくなりそうなほどしんどいはず。誰かに話すだけで少し気持ちが軽くなる、聞く側にできることなんてその手助けぐらいしかないんじゃないかなと。もちろん信頼している相手であれば、助言や何かしら意見がほしい場合もあるとは思うのですが。でも、そこまで相手の人生や生活の責任持てないっしょ。どこまで助けられるんだよって奢りじゃんって。依存されても助けられるんかいって。

てなことまで話し出すとどんどん話が逸れて別の話になるのでアレですが、よくやりがちな「同情」には気を付けないとなーっていう話です。はい。
相手が悲しいから私も悲しくなって来た。気持ちを想像するとつらくなってきた。そういうもっと素直なことが同情であれば、そんなに悪い意味にもとらえられないのになーって。むしろ超やさしい人だと思うんですけど。

同情が悪い意味なのかYahoo知恵袋で質問している人もいたので回答を読んでみると、「同情された時点でされた方が劣勢」というのがベストアンサーで。えええ!そーなん!?となったり。優劣の問題かい。

奥が深いですね、同情。

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