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長編小説『becase』 32

 今はただ一つ、紺色をした湯呑みだけが逆さにして立っている。

「おねえちゃん!」

賑やかな商店街に声が響いた。おねえちゃんなんて誰を指しているのか分からない言葉のはずなのに、私はそれが自分の事を呼んでいる声だという事がすぐに分かる。さっきまで聞いていた嗄れ声、さっきまで言われていたおねえちゃんという言葉のせいで。

 後ろを振り向くとでんぱちが私の方に向かって駆けてきた。まだ私から三十メートル程離れていて、このままでんぱちだけ時間が止まってしまえばいいのに、って少しいじわるな事を考えて見たりした。私の前まで辿り着いたでんぱちが膝に手を付き、荒い呼吸を地面に向かって吐き続けている。

「やっと……追いついたよ……」
でんぱちは息を荒げながら嗄れた声でそう言った。下を向いているせいか、息が上がってしまっているせいか、声が嗄れているせいか、私には何と言ったのか聞き取る事ができなかった。

「え?」
と咄嗟に少し強い口調で聞き返した。それを聞いて少し驚きの表情を見せたでんぱちがやっと顔を上げた。

「いや……」
でんぱちは背が高く、横幅もあった。二人が向き合えば、私の目はでんぱちの胸あたりだし、横幅は私二人分くらいある。ただ単に脂肪を付けた中年男というよりは、元々体つきのいい人間に見えた。そんな人間の驚きの表情がなんとも滑稽に見え、私は少し笑ってしまう。

「なんですか?」
笑いを堪えながらそう問いただした。でんぱちはまだ息をあげたままで、これから言う言葉を頭の中で懸命に整理しているようだった。

「いや……手伝ってやろうかって」

「はい?」

「だから手伝ってやろうって」

「手伝う?」

「そうだよ」
嗄れた声が耳につく。なんとも耳障りな感触だった。

「手伝うって何をですか?」

「そんなの決まってるだろう」

「決まってませんよ。何をですか?」

「だから」
と言ってでんぱちは大きく息を吸い込んだ。

「彼を一緒に探してやろうって」

「は?何を言ってるんですか?」

「だから彼をだな……」

「それは分かりましたよ」

またでんぱちが驚きの表情を向けた。この人が一体何に対して驚いているのか、もう分かろうとするのも嫌になった。大きな丸い目はずっと私を捉えたままだ。

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