会話や通話への苦手意識と、苦手意識と不安感などの分離
ぼくは会話に苦手意識がある。だけど、「実は会話が得意なのでは?」そんなことを思った。いままでの固定観念がすこし崩れた。こういう思考がクリアになるような体験は心地がいい。幸せを感じる。この幸せや感動と一緒にいきていきたいので、文章として整理してみることにする。
「会話」と「会話に付随する不安感」は別物なのだ。
そして「会話に苦手意識がある」ことと、「会話が得意である」ということは、ふつうに両立される。矛盾はない。
「会話に苦手意識があるぼく」は「会話が苦手」だと思っていた。思い込んでいた節がある。
ぼく「会話が苦手です」
これはワンチャン嘘である。
ぼく「会話に苦手意識があります」
これはマジであるようす。
ぼく「会話が得意です」
これはワンチャン本当である。自分で「得意です」なんておこがましいにもほどがあるが、そんなことを思ったのだ。傾聴ができる。(うえにはうえがいるもので、自分で「得意です」というのは怖いということをしった)
(「ワンチャン」や「マジ」などの言葉が自然とでてくるあたり、まだまだ伸び代がある気がするので精進していきたい)
「会話が苦手です」は嘘である(こととする)のだが、「会話に付随してくる不安感は大の苦手です」は本当である(こととする)
まとめるとこんな感じ?
×「会話が苦手です」
○「会話に苦手意識があります」
○「会話に付随する不安感などが苦手です」
△「会話が得意です」
「会話に苦手意識があります」
をもう少し深掘りすると、
「会話に苦手意識はありますが、多分本当に苦手なのは会話に付随してくる不安感です」
というような感じ?
「会話に付随してくる不安感」についてこれはいわゆるトラウマといわれるようなものなのだろう。冷やかしや頭ごなしな否定を、家庭でも学校でも存分に浴びて育つと自己主張は怖くなるのだ。
一人でいることへの耐性は強いとおもう。だけど、寂しくなることはふつうにある。人間が群れでいきてきたことによるなにかが遺伝子レベルでなにかしら組み込まれているのだろう。
人と話すことには恐怖を感じる。傷つくことがこわいのだ。だけど、ひととひとなので傷つくことが普通なのだ。傷つかないように、傷つきたくないとやってきた。それは非現実的であった。「背中から羽を生やしたい」と非現実的なことを嘆いていた。傷つくことを受け入れて愛そう。回復手段をおおく準備しておこう。しっかりとあきらめていこう。
こんなに怖いのにこんなに話したい。このあたりの苦悩、しっかり愛して誠実にやっていきたいと思う。
おさけのむ。のーとかく。こまっているひとたすける。