『ジョーカー』が胃の底で石と化した

映画「ジョーカー」、見てきました。

えっ????なに?????何が起こった???????

というのが簡潔な感想です。

私はアメコミに明るくない。つい最近MARVELにハマってようやくDCとの違いがわかったレベルだ。それで、この「ジョーカー」は公開前から国内外でとてつもない話題になっていた。ツイ廃の私は様々な批評や記事を見てなんとなく興味を持っていたのだが、誘ってきたのはまさかの母親だった。えっうそ、あなたアメコミ好きだった?──いや、話題だから。

あ、そう。

まあ親子揃ってそんなレベルで見に行った。ある人のツイートには「バットマン知らなくてもいい」と書いてあったので多分大丈夫とは思いつつ、一応金曜ロードショーのバットマンvsスーパーマンを見た。(ジョーカー出ないのになんで???)母親はその前の「ダークナイト」も見ていた。偉い。

当日、私は朝一の回をとり見に行った。満席とは行かずとも、朝一にしてはかなり人が多い。私はある種の緊張をもって、片手にジンジャーエールを構えながら始まるのを待った。

(ここからネタバレありますのでね、気をつけてね。)


始まった。

開始数分、私はもう見るのを辞めたかった。

別にこの映画が嫌いという話をしたいんじゃない、あまりの劇薬だという話をしたいのでどうかUターンしないでもうちょっと見てほしい。

たった数分でもう見たくないと思わされたのは初めてだった。これ以上主人公(アーサー)がひどい目に遭うのを見たくない、と思ってしまったのだ。世の中は嫌なことだらけ、最低、ゴミクズだらけ。そういう時もあると分かっている。でもそうじゃない時もあるんだ。私たちは、だから生きていける。

しかし私には、これから先アーサーにその人生の希望が与えられる兆しが一切見えなかった。これよりも前に、与えられたこともないかもしれないと思った。

じっとりと体中に嫌な汗をかき、手はバッグの紐を握りしめていた。私はただの一度も緊張を解くことを許されなかった。顔は固まっていた。しかし、私は最後の方でようやく、彼につられて笑うことが出来たのだ。恐らくそれは笑みと呼ぶのも躊躇われるぎこちないものだっただろうが、一種のカタルシス、解放感を持って、私の頬の肉を動かせた。

そうなったのには当然映画の内容が関係ある。見た人なら分かると思うが、あんなに映画には笑顔があったのに私たちは一度も笑えなかった。折角のジンジャーエールはほとんど飲むことができなかった。

なぜこんなに苦しいのだろうか、と考えた。

彼は、ありふれていたのだ。あまりにも。

私は本当にジョーカーについて知らない。バットマンの敵、くらいしか知らない。それがどういう存在か、知らなかった。そして今回で、ファンになった。なってしまった。

アーサーに降りかかる災難。当然、私には到底理解できない苦難もあった。出生の話も、病気の話も。それでも「分かって」しまうのは、世の中にありふれた苦しみに彼が触れていたからだ。触れていた?いや、襲いかかられていたからだ。

ありふれた苦しみは、ありふれているからと言って軽いものなわけじゃない。其処此処に、人が抱える重たい苦悩がある。人の悪意、嘲笑、蔑み。気まぐれに与えられる痛み。強者と弱者。

弱者だったものが反撃できるものを手に入れた瞬間、世界はひっくり返る。

アーサーに銃が渡り、私は彼が家でおもむろに取り出した時まさか撃つまいと思ったのだ。彼は、普通の人のように、おどけて、なんでもないように笑い踊った。そして唐突に引き金を引いた。あまりに滑らかだったものだから、私は何が起こったか一瞬わからなかった。おびえた。画面の中のアーサーも同じように、怯えていた。

ここで、アーサーの母の話をしたいと思う。

私は実は最初から違和感があった。彼女は、全く子供について触れない。アーサーの自分の話に合わせようとしない。考えることはいつも、「ウェインさん」のこと。どうか助けて。私たち親子を、この生活から。彼は優しい人。そう言う。でもアーサーが頼りにならないと言っているようで私はひたすら辛かった。もちろん生活苦はあるだろう。アーサー自身も面談に通っては薬を貰うような状態なのだ。でも彼の頑張りが、彼女には全く見えていなかった。

その違和感は劇中でアーサーを「ジョーカー」に変える要因となったのだけれど。

アーサーが笑う度辛くてたまらなかった。笑っているのに、まるで泣いているようで、途中までの彼は本当に苦しそうだった。

そして解放された。

彼はテレビに出た時、笑いに邪魔されることも無く滑らかに喋る。私は不思議と、彼が「ジョーカー」になった時から、ずっと奇妙な爽快感を覚えていた。予告でもよく使われていた階段を踊りながら降りるシーン。あれは圧巻の一言に尽きる。彼は狂気に飲まれてしまった。一瞬そう思って、違う、狂っているんじゃない。自分から飛び込んだんだと思った。狂った世界に。世界は狂っている。彼は狂っている。でも、アーサーは自分に優しくしてくれた人間を殺さなかった。

狂っているのは、世界か彼か。彼も語るとおり、私には全くわからなくなった。

……話を戻す。私はジョーカーに魅せられたのだ。いいぞ、いけ、ジョーカー。そう思った。まるでヒーローが生まれたかのようだった。彼が罪をなんのこともなしにどんどん重ねるのは目に見えていた。人を殺すだろう。それに怯え、戦きながら、私は、やれ、と思っていた。

最後のシーン、彼はとうとう他人に「聞いてもらおうとする」、「伝える」ことをやめる。理解されないと分かってしまったんだ。私は悲しくて仕方なかった。彼は人の悪意が、あるいは悪意「は」伝道することを知ってしまった。誰ももう彼を見ないなんてことは無い。だって、彼こそが。


彼は光の中で踊る。

最後の最後、まるでコメディのようにあっちにこっちに追いかけられる様は一見滑稽だった。それでも、The Endの文字を見た私は、涙ぐんでいた。泣きはしなかった。体のふちで、水分は膜をはり流れるのをこらえていた。人生は喜劇だ。その通りだった。一体何が彼の人生を喜劇にしたのか。悲劇にしたのは何かと言われれば、映画の中で明かされた数々のエピソードや生い立ちから分かる。なら喜劇は。

人は善悪を自分で決める。アーサーも、自分で決めたのだ。すべてを。自分の人生を。

私はエンドロールを放心して聴いていた。少ししてようやく、喉の乾きを覚えジンジャーエールを啜った。明かりがついて劇場から出ても、最初に何を言うべきかわからなかった。

なんであんなに美しいのだろう。

そう思った。

私の中はぐちゃぐちゃだ。もう二度と見たくない、と思いながらもう一度見たくて仕方ない。彼のことを恐ろしいと思いながら、なんて美しいんだろうと思っている。私は傍観者でありながら、当事者だった。

私の耳には彼の笑い声がこびりついて取れない。

そのあとお昼ご飯を食べ、母親と買い物をした。でもどんなに話をしていても、私はふと彼のことを思い出す。ジョーカー。

そして私の臓腑はすっと冷える。胃の底に重たい石がのしかかったように冷たい気持ちが漂った。

例えるなら海みたいだ。表面はあたたかいのに、下の方、足先が突然冷たくなる場所がある。あんな感じ。

恐ろしい映画だった。

私が無力でよかったな、銃を持ってなくてよかったな。ふとそう思ってしまう、思ってしまった。

そして私の気持ちは今、もう一度見たいという方に傾き始めている。

まぎれもなく私は、ジョーカーのファンになった。

冷たい石を詰め込まれた、というより、掘り起こされたのだ。怒りも悲しみも、全て覚えたことがある。私はこれから、「ピエロ」になってしまわない自信が無い。いつまた私の足先に冷たい海水が触れるか、私には全く分からないのだから。



つまりまあ、最高だったんです。


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