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思春期の葛藤を解消させた、友人の何気ない発言

たしか大学2年生の時に耳にした、いまでも忘れられない友達の発言がある。そのことばで、それまでの20年間抱えていた葛藤が小さな穴の空いた風船のようにゆっくりと消えていくことになった。

その発言者である彼は、僕の知り合いのなかで最も周りのひとに愛され、思いやりのあるひとである。他の人と同様に欠点はいくつかある上にリーダー気質ではないが、人望とはこのことか。と思うくらいに誰からも嫌われず、信頼できるひとである。その場に彼がいるだけで、彼を中心に場が周り、卒業式のあとの最後の学級会のようなあたたかく元気な雰囲気になる。

彼とは、大学入学時に友達を作るために入ったテニスサークルで仲良くなった。ただ彼と僕は、その独特な雰囲気に馴染めないはぐれものとして隅っこで仲良くなった。人望なんて微塵も持ち合わせていなかったぼくと、彼が仲良くなったのははぐれものという共通点があったからで、そうでなければ恐らく嫉妬心で敵にしているか、憧れで近づけないかのどちらかだったはずだ。

 

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その発言は何気ない日常の中で、聞くことになった。

彼がいつも通り思いやりのある行動をしたタイミングで、「◯◯(彼の名前)って利他的で思いやりがあるよね」と僕か誰かが褒めた時に彼は言った。

「いや、自分がそうしたくてしているだけだよ。自分が気持ちよくなるようにただ行動しているだけ。だから、何も特別ではないはず。」

大学生が得意な、時間を共有するためだけに存在する意味のない雑談のテンポのまま答えたので、彼にとってはあたりまえのことだったのかもしれないが、僕にとっては考えたこともなく非常に新鮮だった。しかし、想定とはまったく違う返答がきたことの驚きより、人望の高い彼でさえもただ自分のために行動していたという事実にどこかホットした感覚が強かった。 

 

それまでの自分は、誰かのために優しくしなければいけない。でも自分を犠牲にするのは嫌で、その狭間で一貫性のある行動をとれなくて捉え所のない人間だった。

そして、優しくなければならない、は他者にも求める価値観として根強いものだった。これは厄介で、優しくないひとがいたら容易に腹を立ててしまっていた。さらに、その相手が一貫性のない僕の自分勝手な行動に腹を立て、良い関係性を築けないことが多かった。

 

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彼のことばでホッとしたのは、なにごとも自分のためでよい。ということを当たり前だと理解させてくれたからだ。

人間は全員利己的であり、その中に利他性が含まれているということだったと解釈している。つまり、みんな自分が幸せになるためだけに行動していて、他人に親切にするのも自分が気持ちいいからだ、ということである。

優しさとは、自分の損を許して相手に得を与えること、すなわち自己犠牲をする意志が必要であると思っていた。ぼくはその自己犠牲ができなかった。相手に気持ちよくなってもらうのは好きだが、自分が損しない範囲内でしかできない。意志が弱いんだと責めていた。

しかし、他人への優しさも結局は自分が気持ちよくなるためであると気付かされた。そうならば、優しさは意志として結果ではない。自己犠牲ばかりの優しさは強い意志必要で僕には到底できない。しかし、優しさが結局は自分のためであるならば、自己犠牲ではなくたまたま利害が一致しただけである。逆にいえば、優しくできなかったとしても、たまたま利害が一致しなかっただけで意志が弱いダメな人間とはならない。
 
 

 

いまは、感謝を伝えたり、返すことを意識している。優しい行動をすることの気持ちよさをより感じる人が増えて、優しさが循環する世界になってほしい、と小さく願っているからである。

 

 

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