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故に自分が自分を独房に閉じ込める

油井原ゆぎ

油井原ゆぎの本当の姿を知っているのは一人だけで、これからも増やすつもりはありません。一部の地域の方々は知ってしまうと思うけれども。
私は今一人で暮らしています。
会社員として働き、公休日はアルバイト、奥さんも子供もいるし両親も健在であるが一人になる理由がありました故に此処に存在しています。

幼少期

とある北部の港町で生まれ兄弟はいません。母は一人っ子だと思われたくない。という理由で友達のように接していたのだと大人になってから気付きました。
幼少期は決して裕福だと思われない生活で、夕食はお味噌汁と白米という日々が続いていました。今でも記憶に残るご馳走は鮭のふりかけです。ふりかけってこんなに白米が進むのだと感じ、炊飯ジャーを自分の隣においてひたすら白米を口の中に放り込んでいました。
父親は酒・女・博打を好む性質で夫婦喧嘩が耐えない日々が続いていました。嫌だったけど毎日のように罵倒し合う二人を見ていたらそのうち慣れてきます。「またか」というあっさり塩漬けのような冷めた気持ちで一人TVを見ていました。
保育園の時はいわゆるガキ大将的な存在でみんなの憧れの的であり、いつも笑いが絶えず私についてくる人間が男女問わず沢山おり、お育園に置いてあるスクーターバイクの様な乗り物には優劣が付けれられており、いつも一番良いやつ(走りやすい)を確保していた記憶があります。
ガキ大将にはガキ大将の敵がいるもので、喧嘩も絶えずしていました。鼻血を流しながら担当の先生に怒られる日々。仲直りはするものの翌週にはすぐに喧嘩が勃発。周りよりも少し身長が高く運動神経には長けていたほうだったので小さいコミュニティを制するのは難しいことではありませんでした。
当時殴り合いをしていた子は途中で転園してしまったので、それ以降の接点はなくなってしまったけど、今でも名前と当時の顔は覚えています。0歳~卒園まで面倒を見てくださった先生は私が卒園十数年後に他界し、インターネット社会になる前だったので葬儀に出席も出来ずにただただ悔しかった思い出となりました。

小学生の時のあいつ

小学校に入学し今までの環境は一変しました。
私が育った地域の小学校は別々の保育園や幼稚園から生徒が集まるので、知っている顔もいれば知らない顔もいる環境です。その中で今で言うとカリスマ的なやつが存在していました。クラスの男女を引き連れ何をやるにも従わなければいけないヒエラルキーを確立していたやつです。保育園から仲良しだった友人達はあっけなくそちら側についてしまったため、小学1年生~2年生までは孤独を味わうことになります。言うて学校内だけなので授業が終われば開放されていましたが、こいつだけは絶対どっかで潰してやろうと陰で企んでいましたが、なんせ小学生の考えることは陳腐なのでそう上手く行くはずもなく、保育園や幼稚園ではないので生活指導的な教師から直ぐに体罰を受けていました。今思うと犯罪で捕まると思うくらいの体罰です。当時は当たり前だったのが不思議でしょうがない。
これも変なのか保育園と同じ様に、そいつは私が小学2年生の時に転校していきました。とても嬉しかったけれど、そいつが住んでいた家を覗きに行きもぬけの殻だった室内を見た時に牢獄を感じた記憶が残っています。フカフカの雪が降っていて氷のようにガチガチに冷え切ったコンクリートと今にも割れそうなガラス窓から空っぽの室内を眺めていました。今思えば気持ち悪い行動だけど当時はなんらかの感情があったのでしょう。一発ぶん殴る前に勝ち逃げされたのが悔しかったのかもしれません。

やつが転校してからは卒業するまで天下を取った感じでした。「てっぺん取っている!」というのはなかったけれど、友達と毎日遊んでバカやって怒られて、よく言う田舎の平凡な毎日が続いていました。その裏では夫婦での争いが絶えない毎日だったので学校に行くのが待ち遠しくてしょうがなかったし、友達の家に遊びに行っても帰りたくない、あんな家に帰りたくない、なんなんだうちの両親は、他の家は全然違うじゃないか。時々お泊りをさせてもらっていたけれど、出てくる夕飯は豪勢な感じでした。まぁ友達が泊まりに来るとなって質素な食事を出す家はないと思うが、当時は自分の家との格差をかなり感じていました。
・・・今こうして文章として過去の自分を書き起こしていますが、保育園の時のやつ、小学校の時のやつ、好きになった女の子、亡くなってしまった先生、嫌いだった先生、通学路や通っていた駄菓子屋の店内、ほぼ全て覚えているのに何故に大切にしていた顧客や良くしてくれた先輩、部下、飲み屋のマスターの名前を思い出せないのかが不思議・・・

中学生になって

半分以上円満に過ごした小学校生活を終え、中学校に入学しますがここで一番問題になったのが所属する部活です。野球一筋だった父は私を野球部に入部させようとしますが、特に好きでもなく部員が少ない野球部でもあり、仲の良い友達はサッカーかバスケといった感じだったので、父親には内緒でサッカー部に所属しました。内緒にしてもすぐバレるのがオチですが当時はひっそりやっていたつもりである。父親は自分の考えに背いた僕を怒ること無く黙っていたけど相当悔しかったと思います。中学生からサッカーを始めたことによる弊害は大きくレギュラーなんて取れるわけもなく、必死に練習をした記憶があります。右利きの私は必死に左足でボールを蹴れるように、リフティングを正確に長時間できるようにサッカーに夢中になりました。自宅のTVは父親が独占しているのでサッカーなんて見ることも出来ず、いつも野球が流れているのでそこだけは周りの話についていけず悔やんでいました。しかし努力は積み重ねることで実るもので、2年生の後期で地域での選抜として試合に出ることが決まりました。ここで何を思ったのか私はサッカー部を辞めてバスケ部に転部するという決断をしたのです。理由は覚えていませんが今思えば馬鹿な選択をしたと後悔しています。はっきりと記憶しているのはサッカー部の顧問とバスケの顧問二人に「サッカー部に残れ」と説得されたこと、その説得を押し切ったあと当時のサッカー部顧問が他の学校にいくことなり後任の先生にめちゃくちゃ怒られたこと。
自分のやりたいことではなく、他人の期待を背負って生きていかなければいけないんだと、自分の人生は自分で決めるのではなく環境決めるのだと感じていました。そこで思い切った決断は勉強と部活を両立させ生徒会長になることです。人生が環境が決めるのであれば自身が環境となれば良いと思ったのです。何が良かったのか分かりませんが見事に全生徒の投票を勝ち取り生徒会長となることが出来ました。実施したことと言えば「指定カバンと指定靴の廃止」くらいですが、当時は指定された物を廃止したという事実がかなりの反響でした。これがどこにでもある「エアマックス盗難事件」に繋がるんですが自由なカバンと靴で登校できるひとときを与えたことには変わりないので後悔はしていません。

無駄だった高校時代

1つのベクトルに絞ることの出来ないクソったれが市内で2番目に頭の良い高校へ入学します。高校生の記憶はほぼありません。
部活にも入っていないし、思い出となる恋愛もしていないし、勉強なんてもっての外でヨダレだけで提出して赤点なんて通常だったし、頭髪検査は悪い意味で顔パス(茶髪ピアスだったから)。
唯一と言っていい記憶は「バスケやろうぜ」と1年間口説いてきた友達と「一緒にバンドやろうぜ」と1年間口説いてきた友達をシカトしたこと。どちらかに乗っていれば今の人生は変わっていたかもしれません。バスケくんは今何をやっているかしらないけど、バンドくんはチャゲ&飛鳥のドラムの方を師匠として今はスタジオミュージシャンとなりました。思い返すと一番無駄な時間を過ごしたのが高校時代だと思います。自分にとっての糧は何も残っていない。
この頃は父親が単身赴任で自宅に居なかったのものあり、家庭内はとても平和だったくらいですが、何故か冷凍庫に包丁がいつも入っているのが不思議でした。後から聴いた話ですが母親は父親を殺す気でいたらしい。冷え切った包丁なんて今思うと悍ましい凶器でしかない。肝が座った素晴らしい母親だと思う。

自分形成の大学時代

大事な高校生活を無駄にした僕は何故か大学に進学出来ました。これは理由があり今の自分の始まりになるんだけど、私は極度の寂しがり屋で人見知りのため一人になりたくない思いが強い人間でした。高校時代に一番仲の良い親友が大学に行くと言い出したため必死に勉強したのです。センター試験ではなく直接大学へ行く試験形式で。国語と政治経済と英語の内2教科だけ合格ラインに達すれば入学出来る。国語は完全に諦めて政治経済と英語を必死に勉強し入学することが出来ました。これで一人にならないと思った束の間、親友は「アメフト部に入る」と言い出します。高校時代にスポーツをやってこなかった自分にとってアメフトなんて絶対に無理だと思いましたが、一人になりたくないという気持ちの方が勝ってしまいアメフト部に入部を決意します。
結果的には4年目に副部長となっており、とあるポジションでベストイレブンという賞を獲得することが出来ました。今の油井原ゆぎを知っている人には想像すらつかないと思いますが、当時は今よりも25kgほど体重があり完全にアメフト部の体格をしていました。ベンチプレスはMAX115kg、スクワットはMAX220kgを記録しました。
大学で経験する辛さと言えば就職活動だと思いますが、私は特にやりたいこともなかったので必死に就職活動をした経験がありません。バイトでいいじゃん、生きていければいいじゃん、何故好きでもない人に頭を下げて仕事しなきゃいけないのかという稚拙な考えの塊だったため、大学卒業後は2年間アルバイト生活を送ることになります。また、家が貧乏というのはずっと変わらなかったので運転免許を取得するお金も出してもらえず、アルバイト代を必死にためて大学卒業後にやっと運転してもよい資格を取ることとなりました。

大学生活を経て

就職をしてから今に至るまでは水が入ったコップを倒してしまったかのように一瞬にして流れてしまった時間でした。
事あるごとにストイックになり、放射線技師、携帯キャリアの営業、システムエンジニア、WEBデザイナー、ボカロPと色々なお仕事をし、アキレス腱断裂、デキ婚、うつ病で休職、大学生との恋愛x2、風俗嬢やキャバ嬢との恋愛、朝を迎えるのは決まって飲み屋ビルの非常階段といった卑劣な人生を送ります。
ここで今の自分のしっかり形成できたのは、営業マンとしての地獄のような十数年です。広告代理店とシステム開発をおこなっていた企業だったので、あらゆる企業との商談がありました。飲食店、製造業、教育関連、美容関連、夜のお仕事関連、沢山の業種とお取引をさせて頂き、47都道府県全て制覇をした今ではどこにいっても移動・食・宿に困らない。
そんな自由気ままな人生により今があるのですが、私は戸籍上の妻に耐えられなくなり家を出ることにしました。子供はとっても大切がそれ以上に自分の人生を自分らしく生きる道を選んだのです。そもそも育ってきた環境が環境なだけに私に家庭という二文字は苦痛でしかなく、毎日平凡な生活を送ることが嫌だったのでしょう。敢えて過酷な環境下に飛び込むことにより自分を追い詰めることにより生きている証を得るために家を飛び出しました。
言わずもがなここで待ち受けるのが「寂しがり屋」と「人見知り」です。一人で生きていくにはこの2つを乗り越えなければもっと苦痛になってしまう。会社員として働いてはいますが私よりも一回り以上年下の子達がいる部署に配属されているので、仕事中は必要最低限のことしか発声することはありません。また人見知りという性格のため発声することが苦痛なため、上手くコミュニケーションが取れないという弱点もあります。しかしここで役に立っているのが地獄だと思っていた営業マンとしての十数年です。営業マン時代は演じることにより其処に居るのは自分ではなく、営業マンとしての油井原ゆぎなので何を言われても何が起こっても自分を責めることもなければ後悔もありませんでした。「だって自分じゃないから」
冒頭で記載した「油井原ゆぎの本当の姿を知っているのは一人だけ」
これは過去の営業マン時代に部下だった子です。
私のSNSアカウントは全て油井原ゆぎとして統一されているため、本当の私を知る人は其の子しかいません。この世で一番信用出来て信頼も出来る唯一無二の存在です。此の子がいなかったら今の私は存在していませんし、今でも色々な圧力と戦いながら芝居上の家庭内にいたと思います。

まだまだ自分が自分を分かっていない

やりたいことを好きな時に自由にやっている日常においてnoteに記載してますが、全て1人になりたくない欲が強いと思っています。
何かしらのスキルや知見があれば色々なコミュニティと関わることが出来るし、打ち込めることがあれば1人の時間を忘れることも出来ます。一時期は余している時間に何をすれば良いか分からず、ベッドにうずくまっていたり、毎日のように大量のアルコール摂取して早く明日を迎えたい気持ちでいっぱいでした。安く直ぐに酔える大量のアルコールを常備し、抗鬱剤と一緒に服用し、友達はSNSという悲惨な時間を過ごしていたこともありますが、今では幾つものコミュニティに属していることもあり、色々な人の価値観や人生観を知ることもでき、私を必要としてくれる仕事以外の人間もおり、一人っ子の私を支えてくれる兄貴的な存在や、歳上なのに弟や妹みたいな人もいます。
とあるオンラインサロンのオーナーにボイトレをお願いしているのも苦手な発声を克服したいからであり、芝居ではない自分をいつか出せるようになりと思っています。

先日、テーブル席よりもカウンターが埋まる行きつけのお店で、22歳の女性と話をする機会があり様々な価値観が一緒であるということで意気投合しました。それ以上の関係性はもちろんありませんが、そんな出会いを糧に今後の人生を自由に生きていきたいと思っています。

ちな、母親と父親が亡くなった時は必ず葬儀の挨拶をすると決めています。
もちろんフォーマットは使いません。自身の思う「親」を語らせて頂き周りからの反感を買うつもりです。

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