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誰かを思うとき。
私には、誰かに聞いてみたい事がある。
でも、
恥ずかしくて、誰にも聞けない。
私の持つ感情は、愛なのか?…もしくは愛情?
ただの逃避なのか?
一番、分かりやすい例で言うと、
私の弟は、キンジストロフィーで30歳で亡くなった。
弟の友達が集まって、みんな泣き続けていた。
人生の3/4は、闘病生活。
自分で手足が動かせないのに、頭はクリアで過ごすなんて、
私には到底、我慢できない。
普通に生きるだけで、誰かの手が必ず必要だ。
顔さえ、自分では洗えないんだから。
トイレなんて、屈辱でさえあった気がするのだけど。
それなのに、弟はワガママさえ言わなかった。
もちろん、ヒステリックに八つ当たりすることもなかった。
たった一度も。
弟が、一度だけ、大きな声を出したのは、
「大雪が降るんだから、帰れなくなるよ!」
それだけだ。
大雪が降ると言うのに、私が弟の入院している病院から中々帰らず「もう少し、もう少し。」と帰ろうとしなかった時。私を心配した時だけ。
弟が亡くなると、たくさんの人が現れて、弟の冗談でいつも楽しませてもらった…と、言う。
弟が亡くなっても、弟に会いたいと言う人たちが電話をよこした。
それを聞くたびに、逆に私は悲しくなった。
弟は、何を楽しんだのだろう?
せめて、ワガママくらい言えば良かったのに。
弟と仲が良かったのに、何もしてやれなかった後悔。
弟にもう会えないと言う喪失感。
その二つで私はいっぱいだった。
仏壇で線香をあげながら、ふと気付いた。
私、弟の事を思ってるんじゃなくて、
自分の感情を処理できないだけじゃない?…って。
そう。私がみているのは、自分の感情だった。
その日から、仏壇に線香をあげる時は、
「弟が天国に行けますように。」
「今度は自由に過ごせますように。」
「天国で楽しく暮らせますように。」
そう、お祈りした。
誰かが、そうお祈りすれば、弟は必ず、天国で楽しく暮らせる。
何の疑いもなく、そう思った。
でも、不思議なことに、
私は全く悲しくなくなった。
お祈りして、天国で弟が幸せなら、他に望むことはない。
…これは、自分の感情処理が、上手く出来ただけだろうか?
私には、そう思えないのだ。
…聞きたいのはここだ。単に、自分の感情処理でなかったとしたらどうだろう?
誰かの幸せを本気で思う事で、人は心が解放されるなら、
簡単に人は、幸せになれるんじゃないだろうか?
これを書いていて、初めて気付いたのだが、
弟はずっと、自分の事ではなくて、いつも誰かの幸せを思いながら生きていたのではないか?と、思った。
だから、ワガママや八つ当たりなんかする必要がなかったのかもしれない。
もちろん、たくさんの辛いことも飲み込んでいたと思う。
私は、とても次元が低い人間で、
弟が違う次元で生きていたことに、これを書いて気付いた。
弟の死に、悲しんでくれた方々に、今、心の底から、
「ありがとう」と言える。
誰かの幸せを、本気で思う時、違う世界が現れる。
そう思っていたら、
森井悠太さんのこんな記事があった。
私のマジつたない文章より、かなり分かりやすい。
私が今、思っている人が人の一人、
ししとうさん。
ウダウダ言ってないで、早く芥川賞取ってしまいなさい。
いつも、そんな風に、誰かを思いながら生きる方が、
私にはあっている。
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