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婚姻という制度からみた恋人たち

先日、noteで色々な記事を見ていたら、同性カップルの結婚式の投稿があった。

フォトグラファーの方の投稿で、
ハピネス感が溢れていて、私まで幸せになった。

お互いがお互いを思い合う、その結びつきが、私にはとても眩しい。


その投稿をみて、数年前のパリのセーヌ川クルーズを思い出した。

バトー ムッシュ以外にも遊覧船はあるけれど、地下鉄を降りると、導かれるように、バトー ムッシュに続いていた。
さすが老舗。

チケットを買うのに並ぶと、前に並んでいたのが韓国人の同性のカップルだった。

何故、そのカップルが気になったかと言うと、そのカップルがかもし出す雰囲気が、なんとも穏やかで、オシャレだった。明らかに二人の世界で、いつもなら、「パリに住んでるんですか?」などと、気になると話しかけるんだけど、とても二人の間に、私は、ふさわしくなかった。割り込むスキはないと言うか。

チケットを買ったあとは、時間まで時間をつぶした。友達がのどが渇いたと言うので、飲み物を買いに行く事にした。

時間が来て遊覧船に乗り込んだ。
甲板で景色を見て、橋から手を振る人に手をふり返したり。
パリの雲の高さが好きで、北海道の雲と似ている気がした。
暖かくて、気持ちの良い風が吹いて、心の洗濯だ〜と、友達と笑いあった。
それから、風が冷たくなって、船室に降りて行った。

船室には誰もいないかと思ったら、あのカップルがいた。
景色なんて、見ていない。
やっぱり、パリに住んでいるのかも。
二人で時間ができて、ブラっと散歩しながら遊覧船に乗った。
…そんな感じだ。
二人とも、パリの街に溶け込んでいる感じがした。
二人は見つめ合い過ぎず、離れ過ぎず、寄り添うようにずっと話しをしていて、
私達には気付かないようだった。
だから私達ははしゃぐのをやめ、静かに、日本とはまるで違う景色を眺めた。

遊覧船を降りて、セーヌ川を散歩していると、さっきのカップルが歩いていた。
沢山のカップルの中でも、そのカップルは、寄り添うように歩く姿が、柔らかい空気に包まれ、強い繋がりが感じられた。
「私もあんなふうに寄り添い合える人がいたらいいな。」
と、思った。
異性カップルは、キスしたり抱き合ったりしてたけど、そのカップルは、自分たちの空気の中で、静かに繋がりを感じて過ごしていた。


私にとっては、最強で理想のカップル。

数年前から、同性カップルの結婚が話題になっている。
確かに、本人達が結婚したいのに、結婚できないのは、まるで自分達が迫害されているような、虚無感に襲われるだろうと思う。人権問題とも言える。
でも、私は、婚姻したけれど、愛情もなく、虚しいだけの結婚生活だった。

結婚は同性、異性に関わらず、幸せは、そのカップルによるのだ。

それに、なんのために婚姻なんてものが始まったかだ。キリスト教による一夫一婦制度でしかないと、私は、思っている。
婚姻制度なんかに、そもそも意味はあるのか?
婚姻関係になると、扶養制度が使えるとか。
ちなみに、夫は、この制度を利用して、全く扶養していないのに、扶養手当は取得していた。制度なんて、悪用しようとすれば、何でも悪用できるのだ。
そう考えると、婚姻関係はなくても、事実婚さえ認めてくれれば、いいように思うのだけれど。

婚姻はなんの為のものかを考えると、私的には、あまり意味がない。離婚率の高さからみてもそう思える。

それよりも、パリで見た同性カップルのような結びつきが私にはとても大切なモノに思える。

でも、問題はそこじゃない。
私はそうして選択権があるけれど、その選択権さえないと言うところだ。
以前にも書いたが、性別が二つなのは便宜上だ。性染色体で考えると、性はグラデーションで、とても二つには分けられない。男女しかない…と言う固定観念だ。科学的にそうなのだから、お互いが同意すれば、今ある性別に関係なく結婚出来る方があっている。

私のように、婚姻関係どうでもいい派もいるけれど、それ以前の選択権は、平等な権利だよな…と、思う。

異性結婚、異性カップルと、対比するため、ゲイと表現するのをやめましたが、表現の仕方に失礼があれば申し訳ありません。

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