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記憶 : short story



車一台と、人が一人通れるくらいの通勤の道を歩いていると、見知らぬ男が声をかけてきた。

「背中のもの、いいですね。」

私はぎょっとした。
一瞬、表情に出そうになったが何とか抑えた。
背中のもの…。
今まで誰一人気付いた者などいなかった。この男は、『背中のもの』が見えたと言うのだろうか?
気付かぬふりで足を早めた。

「それは飛べるんですか?」

男には見えているのかも知れない。
そう思うと、余計男が気持ち悪く思えた。
男からは日の当たらない場所で湿度が循環されることなくずっと籠っていた臭いがしている。
その臭いだけでも、男から遠ざかりたいと思った。
でも、何故、そんな男に『背中のもの』が見えるのか?

「それは飛べるんですか?」

まだ男は付いて来ている。
すえた臭いだけでも遠ざかりたいのに、私の何かを知っているのだと言う風に薄笑いを浮かべた様なその表情も、鼻にかかった様なその声も、嫌悪でいっぱいにさせる。


『背中のもの』は、
先日、自分でも気付いたばかりだ。
職場から、丘の上を通り、細い、それでもスピードを上げた車が通り過ぎる道を歩いて駅に行く。
丘の上で風に煽られた時、背中で何かが空気をはらむのを感じた。
それが背中のものに気付いた初めてのことだった。

ふと、背中のものの事を考えそうになったがやめた。
何となく、男に悟られそうな気がしたから…。

でも、背中のものを気にしだすと、どうしても広げたくてたまらなくなった。
だから、本当は電車に乗るのだが、ロータリーに向かいバスに乗った。
男はバスに乗り込むことはなかった。
良かった…と、心の中でつぶやくと体の力が緩んだ。
夏至は過ぎたけれどまだ日は長く、日中の熱が十分残っていた。
水色の空に浮かぶ雲は入道雲ではなくて、レンズ雲だった。
明日は天気が崩れるのだろうか?
別に雨は嫌いではないし、少しは涼しくなりそうで、それはそれで良い気がした。
レンズの様な形で、それが何枚も重なった様な雲は、どうしたらそんな形になるのか不思議でしょうがない。
水の粒子が埃の核に集まって、どんどん集まって、そしてレンズの形になるなんて、誰かが魔法を使ったとしか思えない。
気付くと、口をぽかーんと開けていて、口の中がからからになっている。
ウォーターボトルのジャスミンティーは既に飲み干していて、家に帰るまで我慢だ。

バスは小高い丘の公園前に着いた。
今時の子供は公園でなんか遊ばないし、日はまだ明るい。
公園の頂上まで行く間、ずっと汗が吹き出していた。
貸切の公園の隅に立ち、風を受けた。

「なんて気持ちいい。」

そして背中のものを広げた。
背中で風を強く受けるのが分かる。
広がり切ると、私の背丈の2倍ほどあった。
それは、羽とは全く違って、水の膜だ。
水の膜が軽く弧を描き風をはらんで、もうこれ以上耐えきれないと思うと、風をギュッと押し返した。
すると、凄い勢いの風が起こる。
起こった風をまた、水の膜はパンパンにはらんで押し返す。
突風が、水の膜から何度も押し出される。それがまた、何とも気持ちいいのだ。
パンパンに風をはらむ水の膜。
はらんだ空気を押し出す水の膜の力。
こんな躍動を、日常のどこにも見つけられない。
水の膜と、全身の筋肉と連携し、絶妙のバランスをとりながら強く柔らかく、風と戯れる。戯れると言うより、格闘に近い感じもする。
風を受けたり、起こしたりしていると、
「私は生きてるなぁ。」
と、自分の魂を感じる。

気付くと台風の風の様になっていた。

その時。
背後に薄黒い気配を感じた。
いつからその気配はあったのだろう?

「水を操れるのかい?」

「水を操る?
 何言ってんの?」
と、心の中でつぶやく。

「自分でも分かってないのか。」

さっきの薄笑いの男だ。
バスには乗らなかったから、きっと人ではないのだろう。
しかもだ。私の心を読んでいる。

「背中のそれは、飛べるのかい?」

私は自分の言葉を遮断した。
大概は、左脳のつぶやきを感知しているだけだから、左脳のつぶやきを止めるだけだ。

「おや?
 心の声も止められるのか?」

左脳のつぶやきを止めると世界は本当に静かになる。
男の言葉も私を素通りして過ぎて行く。

「まぁ、そうなら別にいいけど。」
と、男はまた薄笑いを浮かべる。

背中のものをしまうと、風は急におさまって、男の気配が強くなった。
さっきのすえた様な臭いと、何だろう、この感じ?

「人ではないよね?」
と、心の中でつぶやく。

「そう思えるかい?」

後ろを振り向かなくても、男がどんな表情を浮かべているのかが分かる。
…どうしてだろう?

「粒子を読んでいるからだよ。
 多分君は、水を操れるんだろう。
 自分の事さえ分からない…そんなもん
 だよ。」

そう言えば…。
超能力者と呼ばれていた人は、念で物を動かすけれど、リーディングも出来ると言っていた。
超能力者なんて変なネーミングをするから訳が分からなくなるんだ。
水を記録媒体としたコンピュータが既に実験されている。
誰が水が記録媒体になるなんて想像しただろう。
水の粒子は、そこら中に溢れている。
記録された物を読み取る力があっても何も不思議ではないんだ。
全てを常識に当てはめるから、世界は窮屈なんだろう。
…あれ?
一体、なんだっけ?
ああ、そうそう。
背中のものの事も、私にはな〜んにも分からない。ただ、面白いだけ。
それで、私には何も支障はない。

「心を止めたと思ったら、自問自答か
 い?
 それはそれでいいけど。
 君の様な人はこれから、どんどん増え
 ていくんだろうねぇ。
 面白いものを見せてもらったよ。」

男の気配は消えて行った。
男に感じた気配を記憶から探ってみたけれど、何も思い出さなかった。恐らく、かなり遠い昔の記憶で、手繰り寄せられそうもなかった。
そして日も落ち始めている。

「帰ろう。」
独り言を言い、家までは10分程なので歩いて帰ることにした。
途中、無農薬野菜のお店があり、買い物して帰ろうかと思ったけれど、店は既に閉まっていた。





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