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価値の剥奪 2023年2月お茶代ジユー課題

価値や意味はもともとないものなのだと気づいてしまってから、私はそれを思う存分に活用して、自らをコントロール、マスターしてきたと思う。意味や価値の剥奪は逆プレゼントともいえる。文化や芸術は意味ないです。金にしか価値はないです。でも金があってもしたいことはないです。だって金も本当は価値ないただの概念。

バレエやオペラなどの「クラシカル」な文化だけを至高として生きてきた小学生時代。メインカルチャー、アイドル、ポップス、すべて敵で憎むべき存在だった。でもテレビが好きだった、「友達に馴染まずとも理解しなければならない」という大義名分で見ることができて生かされていた。しかし、当時の私にとって現代文化は「本当は」憎むべき存在で、親にどうにか「そんな文化」好きじゃないと態度で示さなければならなかった。何としても筋をとおす。それが生きがいだった。

メインカルチャーから価値を否定、剥奪することによって、バレエおよびオペラなどのハイカルチャーを更なる崇高なものに昇華しようとしていた。

アイドルを見て「ああ、なんて憎むべき踊り。凡庸な恋愛ソング。」と…

「死にたい」と思うようになるずいぶん前から、多様なものごとに中指を立ててきたのだと、今になって思う。

徐々に成長して性欲がでてきた。そのせいで私はうまく丸くなったと思う。性欲のせいで、「嫌いなあの子」も魅力的に見えてきて、ああ、これで楽になれる。と多分本能で思ってたのかもしれない。ほとんどすべてを憎む生活はそれなりにきつかった。

説明できないことを性欲だよと片付けてしまう節が私にはあります(笑)

しんどいな。文章書くのは、目に見えない自傷行為。目に見えない自傷行為は多岐にわたるが、その都度、効果的に気持ちいいのを選んでいる。いまは多分これが一番気持ちいい。

話は元に戻ります。
プレゼントの送り手、マーケター、プロデューサー、価値のないとされるものに価値を見出す人々がいるのなら逆の作業をする人(小学生のころの私とか)もいるということが言いたい。

皆さんも、浪費が止まらない時は価値あると思うものの意味や価値を剥奪してみるということをしてみるのもよいかもしれません。あまりやりすぎると精神的に負担が大きいので、おススメはできませんが…

こんなことを書きたいんじゃなかった気がする。ああ罪深き承認欲求。こんな文章には価値がない。でも、恥をさらすのって気持ちいいよね♡

「プレゼント」という概念は「物体」+「贈り手と受け手の関係性」だと思う。卑劣なプレゼント、脅迫、因縁、マーキング。まあ、楽し気な言葉でもひねくれてる人間からするとこのような言葉が出てきます。だから、「与える」「プレゼントする」事も徒然なるままに述べてきた「価値の剥奪」と同等な暴力性を持っている気がする。



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