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大事な人のしあわせ


ぶっ壊れそうだ。

したいことがふたつあって。
でもそれら両方をすることは許されないらしい。
他者から決められた制約。
だったら両方いらねぇよくそボケカスが‼︎‼︎
と言いたいところだが
どうもその制約を受け入れることが自分の幸せに繋がるような気もしている。

とにかく今「自分の幸せ」というものがわからないせいで混乱の中にいる。
基本的に私の幸せが他者の中にあるからこんなことになる。
好きな人、大切な人、助けてくれた人、私に笑顔を向けてくれる人
そういう人たちが笑ってくれてんならなんでもいい。
私よりも大切な人が多すぎるというか
私のことがどうでもよすぎる。
だから自分の心身を削ってでも誰かのために動くし、自分の生活のために余力を残すこともない。
ずっとそうやって生きてきたから今皺寄せがきている。

私の考える幸せはいつも他者がメインだ。
でも本当に考えるべき自分の幸せというのは、他者に依存しない、純粋に自分単体で叶う幸せとか、他者に依存しない考え方なんだと思う。
…思えども、そんなものは私の中にはない。
前、誰かにそれを話した時「そのままでもいいんじゃないかな」と言ってくれた。
私はその言葉に救われる気持ちもあったが、それだけではダメなのだとわかっていた。
同じ考えではこの先もこの苦しみから抜け出すことはできない。
私を大切にしてくれる人は、今の私をそのまま受け入れてくれる。
何人かそういう人がいて、とてもありがたいことだが、私はこのままではダメだ。でもそうやって受け入れてくれる人がいるからこそ頑張れる。

また別の人に相談した時。
「お前が大切に思ってる人は、お前が自分を大切にしないことを悲しむぞ」と言われた。
感情のままとか、直感的な理解が苦手な私は、そういう論理的な諭され方をしないと納得できなかったりする。
「確かに」と思った。
大切な人のために動くなら自分を大切にすることも相手を大切にすることになると。
うーん、難しいです!
私が疲弊していくのを悲しむ人がいるなら、そこまで考えて自分を大切にして、かつ相手も大切にするってことか。
今の私にはできていない。
そこまでできるのか?という考えと同時に
なぜ今はそれを"しない"でいるのか?が気になった。
きっとマジで大事な人を大切にするってそういうことだ。
そこまで至っていない私は、本当に「大事な人を大切にしたい」という思いで行動しているのだろうか?
自分の行動を「大事な人のため」と美化しているんじゃないのか?
大事な人のためとはなんだ?
自分のためか?
自分の幸せとはなんだ?

少し前に加藤諦三さんの本を読み漁っていたが、本の中で「あなたが本当に怖いと思うことはなにか」という問いかけがあった。
本の趣旨からは逸れるだろうが、私の中の「本当に怖いもの」がわかれば、私の、私にとっての幸せがわかるんだと思う。
なんどか考えたが、私が怖いと思うものの答えは明確には見つかっていない。
人に嫌われることが怖い、ような気もしたが、すこし根本からズレる気がする。
もっとアホほど欲望に忠実で、シンプルな答えだと思うんだ。
私は直感的に真実を掴める人間ではないから、考えて考えて、お腹が痛くて食欲もなく吐きそうになるまで考えないとダメなんだ。

なんとなくだが、根本的に
「幸せになる気がない」
ような気がしている。
でも大切な人が私の幸せを願うなら考えよう。
私の幸せとは何か。
私がどういう状態なら大切な人は納得するのか。
それは誰にとっての幸せなんだ?
幸せとは誰のものだ?

全部ぶっ壊したくなる。

あなたが自分のために飲み物を用意して、私の記事を読んでくれたらそれだけで嬉しい。