軍艦はコンビニの制服を着ないし、紫式部は洋服に身を包まない

まず最初に、私は日本で一番遊人気であろう/あったゲームについて辛辣な意見を述べる。
これらを批判されて烈火の如く逆上する人は多いし、私自身も恨みを買って粘着されるのも嫌なので予め断っておきたい。

嫌なら、見るな。
世の中には私が吐き出した怪文書よりも、もっと有意義で人生の為になる書が山ほどある。
折角字が読めるのだから、もっと有意義な文を読んで、自身の人生を豊かにする為にそのエネルギーを費やしてほしい。

以下、了承した人のみ目を通してほしい。







さて、私が言いたいことはこのnoteのタイトルにおおよそ集約されている。
近年私の内に芽生えた、そして日々肥大化している怒りの感情をそのまま書き殴った。

別に擬人化という文化そのものを否定したい訳でない。
というか、寧ろ好きだ。
この世の全て、森羅万象を『人』という型に押し込んで親近感を持たせる。
素晴らしいアイデアだと思う。
その擬人化にリスペクトの精神があればの話だが。


私の怒りの理由の大半は、この元ネタへのリスペクトの欠如から来ている。
『艦これ』を例として挙げよう。

このゲームでは、第二次世界大戦にて活躍した世界各国の軍艦をモチーフとしたキャラクター達が登場する。
このキャラクター達はモチーフ元となった艦の名前を受け継ぎ、また史実にてどの様な結末を辿ったかをある程度知っておりそれに因んだ人格を持っている。
外見もモチーフとなった艦の兵装を意識した物になっており、外面内面問わずモチーフとなった艦が人間に『生まれ変わった』かの様な、まさしく典型的な擬人化である。

ここまでは良い。
ミリオタおじさんを自称する私から見ても、艦娘は軍艦の擬人化として素晴らしいと言えた。
艦娘が自身の艤装を外すまでは。


声を大にして言わせてほしい。
軍艦の存在意義とは、国家の財産を守ることである。
即ち、激動の戦争に生きた彼女たちの存在意義は、国家と国民の財を狙う敵と戦うことである。
己の力を誇示し、来るべき敵に備え、暴力装置としての役割を全うし、国家にその命尽きる最後の瞬間まで奉仕する。
軍艦だけでなく、戦車や戦闘機果ては一将兵が持つ弾薬の一つに至るまでがその責務を果たさなければならない。
それこそが戦うために生まれてきた機械の運命なのだ。
軍艦が艤装を手放すなど、あってはなならない。それは国家への反逆と同意なのだ。
そしてそれは、『生まれ変わり』である艦娘達も同じ筈なのに。

『艦娘』は、軍艦が擬人化された物である。
そこから軍艦の要素を取り除けば、残るのはヒトガタの『何か』だ。
一体このヒトガタに、何の価値があると言うのか。
何故このヒトガタは、元となった軍艦の名を傲っているのか。

偏に、元ネタへのリスペクトが無くなってしまったからだろう。


これは、今の世に存在する全ての擬人化美少女が登場するゲームに言える。
軍艦のみならず、戦車や戦闘機、小銃、歴史上の偉人、神話の神々。
ありとあらゆる物が、『人』の型に押し込まれ、整形され、吐き出された。
そこに、リスペクトの精神はあるのか。
金さえ手に入ればそれでいいのか。
後世に語り継がれる逸話を汚して。
サーチエンジンの検索結果を汚して。
面白い部分だけを切り取って。
最後に残るのが金でいいのか。

軍艦はコンビニの制服を着ない。
ナイチンゲールはハロウィンに下品な衣装を着ない。
源頼光は巨乳の女性ではない。
紫式部は洋服を着ない。

例えどんな理由を並べられても、私はそれに納得しない。

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