「まとめ」を読んで世を憂う

百聞は一見にしかずとはよく言ったものだと思う。

だが今生きている我々は、一聞という単位にすら遠く至らない「まとめ」で世界を見ている。
コンテンツとして数秒で消費される3行ニュースやニュースに対しての発言等といった「まとめ」は喜怒哀楽を一瞬だけ与えて忘却される。そこには思考も画面の向こうにいる人間も介在しない。反射的に感情を抱き、その勢いのまま素っ頓狂なSNSのコメントをしたりする。
そうして膨大なコンテンツ群は脳裏に少しだけ痕跡を残して、うろ覚えの何かに変わる。
小さな痕跡過ぎて関連づく物が視界に入ったとしても連動して思い出すことなど出来はしない。その速度で世界を食いつぶしても、コンテンツや情報は際限なく湧き出てくる。

そうして選り好みした情報を少しずつ無為に蓄積することで、何も考えることのない、惰弱で偏見に凝り固まった自己が、今までの自分に上書きされて行く。
遅効性の毒のように自分でそうした状態に気付く事もできず、同じように先鋭化された自己を持つ誰かと関係を深め、加速度的にその集団で共有される憂いを深める。

先鋭化した憂いの中では、自分が望む情報以外の「まとめ」は視界にすら入らない。脳裏に1ミリも蓄積することがなくなり、自分が望むまとめの中に閉じ籠もる。
昨今のコロナ禍の中で、人と会ったり何か経験したりという、「一見」から離れた(特に今までインターネットにかじりついて来なかった)人は、まとめの毒が脳髄に回るのが早い。

私ももう、恐らくは犯されているのだと思う。
SNSのトレンドを眺め、頭がおかしくなる自覚を持ちながらも仄暗い妄想をしたりする。

垢のように重なった「百分の一聞」が「一見」より強固なものになってしまうと、その人はもう帰ってこられない。

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