「being /あいつがいればなぁ」 の価値
木村石鹸では自己申告型給与制度という自身の給与と貢献内容を自分で提案するという制度を運用しています。この制度に変えてすごく良かったなと僕自身は思ってるのですが、一方で、どうしていこうか、と悩んでいることもあります。それは「beingの価値」をどう捉えるか、ということです。
自己申告型給与制度では、未来に対しての自分の貢献内容と、その貢献内容に見合うと思われる給与額を提案します。
となると、基本、何か新しい取り組みや新しい役割を提案しないと、なかなか給与額を上げる提案は難しくなります。でも、別に何か新しい取り組みをするでもない、新しい役割を担うでもない、今やっていることを続けていくだけ、それでも、ただそこに「いる」ということに価値がある、そんな人もいるんじゃないかと思うんです。
例えば、その人がいるだけで場の雰囲気が和むとか、心理的安全性が高まるとかね。若い子が気軽に相談できるので問題やトラブルに早く気づけるとか。離職率が減るとか。その人がいると周りが協力して事に当たるとかね。
そういう「いる」ことに価値がある人って、組織には必ずいてるんじゃないかと思うんですね。
こういう価値を、僕は「beingの価値」と呼んでます。問題は「beingの価値」は、本人が申告するのは難しいといことです。
本人が私には「beingの価値がある」なんて主張してたら、その人は本当に「beingの価値」があるのかどうは疑問でしょう。そういう人は、大抵、当事者ではなく周りの人にとって価値を認められているものだと思うからです。
beingの価値がある人って、普通に仕事でも何かしらちゃんとやるし、信頼もされているとは思います。仕事は全然駄目みたいな人は少ないとは思います。でも、仕事内容や役割はそのまま変わらない人っていますよね。
うちの今の申告制度だと、「beingの価値」は、本人は提案しにくいし、そうなると仕事内容や役割が変わらない人は給与アップの申告が難しい=給与が増えにくいと言うことになります。
自分の仕事内容や役割は変わらなくても、その人の周りにいる人は変わっていったりする場合、例えば、周りの人数が増えた場合とかね。「beingの価値」ってやっぱり上がってると思うんですよね。
「beingの価値」って僕はすごく重要だと思ってます。スキルだとか実績だとかと同じぐらい、いやそれ以上に積極的に「beingの価値」も評価していくべきなんじゃないかなと思うんですね。
「beingの価値」を組織の中でどう位置付け、理解していくか。それはすごく重要なテーマじゃないでしょうか。まだ、具体的な何か良い方法を思いついているわけではないのですが。
「beingの価値」について考えてた時に、ふと、以前社内に発信した内容を思い出してました。その文章をそのままこちらに掲載しておきます。
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僕は、会社の在り方として、セムコ社のリカルドセムラーという人と糸井重里さんにかなり影響を受けてます。糸井さんは、経営より以前にクリエイティブとかインターネットの捉え方で好きだったんですが、「ほぼ日」という会社を作って、その経営思想とかに触れるたびに刺激を受けてます。今日は糸井さんの話を取り上げようと思います。
糸井さんが、株主説明会の質疑応答で、すごく面白い回答をされてたんです。ちょっと長いですが引用しておきます。糸井さんの回答したことが完全に理解できるとは言えないのですが、自分自身モヤモヤ考えてたことに少し解決の糸口のなりそうなヒントがある気がしたので。
質問はこんな感じ。
これに糸井さんがこんな風に答えられてました。
すごーく抽象的な話と、具体的な例が混在してて、なんか捉えどころのない話のように聞こえるかもしれません。
この話をそのまま捉えてしまうと、「時間にルーズな奴」を叱るのが駄目なのか、木村石鹸でも時間にルーズでいいのか、みたいに思ってしまう人もいるかもしれませんが、そういう意図はありません。木村石鹸では時間はきちんと守りたいし、時間を守れない社員は、それはそれで問題だと思ってます。
ここで糸井さんが仰ってることは、「時間にルーズ」で良いという意味ではないんですよね。多分。その辺のニュアンスを説明します。
糸井さんは、まず、今の時代における「仕事」は、業務を技術に切り分けて、誰がどの担当と明確にして出来るようなものじゃなくなってると言ってます。チームでの仕事が大事になっている、そしてチームで重要なのは「互いに助け合う」関係なんだ、ということです。昔みたいに、ある決まったことをやっていれば良かった仕事は、もう今はありません。社会や環境の変化は早く、常に新しいことに取り組んでいく必要があるわけです。
ここで糸井さんらしいのは、互いに助け合う関係のチームにおいて、誰がどう役に立つ、みたいなことよりも、もっと根本的に重要なのは、「あいつがいればなぁ」の方じゃないの、と言うことですね。もちろん、誰がどんなスキルがあるとか、どんな知識を持っている、ということは重要だとは思うわけですが、でも、それより前に、そんなことを差し置いて「あいつがいればなぁ」なんだと。
「時間にルーズな社員に厳しくする風土」は良くない、と糸井さんがいうのは、そういうものを責めることの前に、「あいつがいればなぁ」を重視する価値観や文化があるのか、ということを言ってるのだと思うのです。順序とか優先順位の問題というと、少し語弊もありますが、そんな感じで捉えたほうが良いと思います。
よく「弱みではなく強みに目も向けろ」みたいな言葉があります。人はついつい他人の出来てないことばかりに目が向きます。でも、弱みの方に意識向けるより、強みをもっと活かす、伸ばすほうを考えたほうが良いんじゃないの、ということですね。
これも、強みに目を向けるから、弱みは一切気にしなくて良いという話ではないと思うんですね。弱みは弱みで、しっかり把握して、どうカバーできるかは考えようということが前提にあります。でも、優先順位としてはまず強みだろ、と言ってるわけです。
糸井さんがここで言ってることも、助け合いがすごく重要なチームにおいて、何が最も重要視されるべきか、それは「あいつがいればなぁ」ということなんだと。存在としての価値ですよね。
僕も、木村石鹸において、そこはすごく重要だなと思うんですね。「あいつがいればなぁ」ってのには、明確な「理由」なんてないですよね。何が起きるか分からない、すごく不透明、不明瞭、曖昧な時代だからこそ、「あいつがいればなぁ」「あいつにいてほしい」という価値が大事だということです。
そして、ここでは「時間にルーズ」ということのマイナスを例に出してはいるわけですが、つまり何かが欠けている、何かが出来ない、何かの能力がない、みたいところで、人を責めることばかりが先走っていったら、互いに助け合うチーム、曖昧さに立ち向かうチームなんて出来ないんじゃないの、ということを言ってるんじゃないかなと。
これね、裏を返せば、仮にある人が「時間にルーズ」であっても、その人が、チームにとって「いてほしい」存在なのか、どうかが問われるということですよね。チームによってはね、「時間にルーズ」過ぎるから、「いてほしくない」存在になってる可能性もなくはないですが...
糸井さんの回答の最後の方に「うちが偉いのは、儲かっている仕事の人が儲かっていない仕事の人にいばったりしないこと。」という言葉が出来てきますね。「気仙沼のほぼ日」というのは、東日本大震災の復興のために立ち上がったプロジェクトですね。これは事業としては全然儲かってないみたいです。ほぼ日は「ほぼ日手帳」が収益の半分以上を生み出してるわけですが、ほぼ日手帳をやってるチームからしたら、「気仙沼のほぼ日」は儲かっていないないから、全体の利益を押し下げてる原因とも取れるわけです。
会社ではこういうことはよくあります。ある事業が儲かってる儲かってないとか、ある取り組みが利益を食いつぶしてるとかね。でも、それってものすごく上辺だけでの非難だなぁと思うわけです。
どの事業が儲かってるから偉いとか、どこは赤字だから悪いみたいな思考が、ここで言う「時間にルーズ」を責める、ことと同じようなことじゃないかと、糸井さんは言いたいんだろうと思います。
儲かる儲からないは物凄く大事だけど、でもその事業の意味とか意義とか、チームや事業や会社にとって「助け合う」ことの重要性とか、そういったものにまず目を向けようよと。そうじゃないと、良いチームにはならないよと言ってるんじゃないかなと思います。
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