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ルールではなく常識に則って判断する

あんまりルールは作りたくないんですね。

ルールをつくるのは簡単なんですが、一度、作ると、ルールってどんどん細則が増えていくなぁと。途中で、そんなはずじゃなかったのになぁと思うこともあったりもするわけですが、細則が増えていく中で、ルールとしての整合性や論理性を担保するために、悩み出したりして、時間が取られたりします。

たとえば、今、木村石鹸には社販制度があります。社員は自社商品を通常販売価格より少し安く買うことができる制度で、特に、それに何かルールがあるわけでもありません。社員が何回使おうが、いくら使おうが構わないといういことにしてます。

ところが、この制度で、友達の分まで安く買う人とかが出てくるわけです。(実際にあったのではなく、そういうケースがありえるという話です)

友達にも社販制度の価格で買えるよ、ということで案内して、本人が友達の代わりに社販で買ってあげてたり。

悪意はないにせよ、これやりだすと、じゃあ僕の友達にも、私の友達にも、と歯止めが利かなくなっていきます。下手したら、趣味で参加してるサークルとかの仲間とかにも「社販で買えるよ」なんて案内したり? 流石にそれはないにせよ、普通、ルールがないと、そういう風に使う人が出てきてもおかしくありません。まぁ、社販価格でも、商品欲しい人がいるのは良いことだと割り切るのもありかもしれませんが、社員が増えていって、その親類や友達も広がっていく中で、何も制限がないと困ったことになる可能性があります。

で、仕方ない、ルールを作るわけです。そうすると、細かいことを決めていく必要がでてきます。家族はどうするんだとか、親戚はどうだとか、本人がギフトに使う場合はどうなんだとか、色んなケースを想定してルールを作っていくことになります。

一度ルールができても、必ず、例外が出てきます。その場合、ルールが追加されていくわけです。一人あたり社販を使える限度枠をつくるとか、回数を制限するとか、一回あたりの注文金額の制限とか、そういう細かいところのルールも必要になってきたりです。どんどん細かくなっていく。

ルールがそうやって細かくなればなるほど、人は考えなくなります。考えなくて済むようにルールがあるので、そりゃそうなんですが、考えなくなるとどうなるかとうと、例外が出た時に誰もそれの解決を考えない、ということになっていくわけです。ルールがないから解決できない。例外だから判断つかない。よし、新しいルールが必要だ、みたいな思考に陥っていきがちじゃないでしょうか。

さらに言うと、ルールが細かく、複雑になればなるほどですが、そこで与えられてることや条件を、「権利」と考えて、色んな主張をしてくる人が増えていきます。まぁ確かに「権利」なのかもしれません。でも、皆が、そういうものを「権利」として主張しだすと、そもそもルールが成り立たなくなって、その制度そのものが提供できなくなる、なんてこともあるわけです。

先の、社販の話でいくと、社販は「権利」だから、ルールの範囲において、どう使おうが勝手だ。誰に文句を言われる筋合いもない、みたいな主張をしてくる人が現れたりして、そこでルールの抜け穴とかを使って、トリッキーなことをやったり、でも、それを「権利」だと、皆が享受しようとすると、そもそも社販として成り立たなくなってしまうとかね。

こういうことに陥りたくないんですね。

うちの会社ではなるべくルールをつくらない、作るにしても細かくしない、ということを意識してます。

ルールの前に、まず、常識に則って考える、これを大前提として掲げてます。これは、僕が最も好きな会社の1つブラジルのセムコの基本方針です。何事も、常識にそって考えようと。シンプルです。

何が常識か、なんてのも人によっても時代によっても変わりますが、常識というものがそういうもの(変わるもの)だということも承知の上、お互いが思ってる「常識」に大きなギャップがありそうなら、納得するまできちんと議論する、確認し合う、そんな覚悟があれば、「常識に則って考える」で、大体のことは対応可能なのではないかと思うのです。

なにせ、会社にいるのは、大人です。採用というプロセスを経て入社してきてるわけですから。会社を悪くしたいと思ってる人なんて、基本いなはずです。目指す方向は一緒です。

「常識に則って判断する」ために、大事なのは、何が原則なのか、その原則はどういう事情や背景から導き出されてるのか、そういうことを明示する、説明するようにすることかなと思ってます。僕としては、ルール作るところよりも、そういったものの共有にパワーを使うほうがいいんじゃないかと思ってるんですね。

たとえば、社販制度の例でいくと、友達はダメ、家族はOK、何親等までの身内がOKとか、ギフトはダメとか、そういうルールを作ることはしたくない。そんなの常識にそって考えようよ。それで済ませたい。これってそんなに難しいことなんでしょうか。背景とか意図がきちんと理解されていれば、大人なら判断できるんじゃないかと思うんですよね。

まず、社販というのがどういう目的で、どういう意図をもって提供しているものかということを説明します。社員には何か一つでもお気に入りの自社商品を見つけて欲しいと思うし、新しい商品や使ったことがない商品があれば、それも気軽に使ってもらえるようにしたいと。

生活の中で実際に使われることで、色んな気づきもあるだろうし、愛着も湧くだろうし、何か一つでもいいので、実際の商品が家庭や生活の中に加わるのは、実際、会社としてはすごく嬉しいことです。

なので、この制度は社員にとっての福利厚生の1つだし、うまく活用して欲しい。どう使うかは、皆さんにお任せします。こんな感じで投げかける。

これで、社員はちゃんと常識に則って判断できると思うし、社員同士も、お互いの行動や判断は、それは大人としての常識に則ったものだと信じ合えるはずです。お互いが信じ合えたら、各人の判断や決定もあんまり気にならなくなるし、気持ち的にも楽になると思います。

別にね、商品を知ってもらう切っ掛けの一つとして、それが会社にとってメリットになるという考えであれば、友達や親類の分を社販で買うことだってOKだと思うんですね。それが会社にとって良いことだと本人が考えてやってるなら、別に構わない。背景を理解してて、その上で、これは会社にとっても意味あることなんだと、本人が本当に思うなら、それでいいんじゃないかと思ってます。

もちろん、すべてこういう方法でうまく行くとは思ってません。逆にしっかりしたルールがあったほうが良いケースもあるかとは思いますし、ルールとかではなく、そもそもやっちゃいけないことを社員ができないような仕組みや機構や環境を作っておく、とかも大事かもしれません。

京セラの稲森さんなんかは、社員を信じる信じないではなく、どんな社員でもそういう環境があれば、つい出来心で何かやらかしてしまうこともある。なので、そもそも社員が「悪さできる」環境を作らないようにすることが、社員を守ることなんだ、みたいなことを言ってます。

確かに、お金が絡むところや、人の目が入らないところ、出来心が犯罪に直結してしまうようなシーン、そういうところでは、ルールもそうですが、どうやってそれを防止するか、そもそもそれが出来ないような状況を作り出すかは、すごく大事だとは思います。

ただ、根底には、社員は大人であり、常識に則って判断できる、ということを忘れないようにしたいなと思ってます。

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