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何が仕事で何が仕事でないか。その境界線の曖昧さにどう向き合うか?

もし社員が業務時間中に会社で熱心に本を読んでいたらどうだろうか?
仕事に関係する本ならOKだろうか。仕事に関係しようがしまいが、「会社は学校じゃないんだぞ」って叱る?

昔の僕は明らかに後者だった。読書はプライベートでやるもの。職場は仕事をする場所。読書は仕事ではない。そんな風に考えていた。

新聞はどうだろう。新聞を業務時間中に読む。新聞も真剣に読むと結構な時間はかかる。それが毎日だと、かなりの時間が新聞読むことに費やされる。

昔の職場だと新聞は始業前に読むのが普通だったんじゃないか。今はどうか知らないけど。始業開始後に席でのんびり新聞読んでるスタッフがいたら、周りからはあの人なんだ?って思われてたんじゃないかな。そういう周りの視線もあるので、大方の人は業務時間中におおっぴろげに新聞読むなんてことはやり難かったんじゃないだろうか。

本を読んだり、新聞読んだり、そういう直接業務とは関係ないようなことは業務時間にするべきことではない。昔、僕はそう考えてた。でも、最近、そういう考え方に違和感を感じるようになってきた。
まだ、自分なりの答えは見つかってないし、しばらくは曖昧なままでやり過ごそうとは思っているのだけど、今の時代、これからの時代において、勉強とか学習とか、所謂「インプット」、それも明確にアウトプットと関係しない「インプット」を、それは仕事ではないと業務時間から排除していくだけでは、事業や組織をより良い状態にしていけないのではないか、そんな気がしている。

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何が仕事で何が仕事でないか、境界線は凄く曖昧になっている。

ある領域の勉強する、本を読むことで、その後物凄く効率が上がるとか、そんなことは普通にある。それは物理的なものだけでなく、考え方とか気持ちとか、そういう領域でも起こり得る。業務となんの関係もない本だったけど、その本を読んだら世界の見え方や認識ががらっと変わったとか。人間関係がスムーズになって、仕事のパフォーマンスが上がるとか。そんな経験、多分、皆あるんじゃないかと思う。

それは「仕事」がどんどん抽象的なものを扱うようになってきていることにも関係しているだろうと思う。こうしてああしてこうする、みたいな一連の作業や手順をその通りにやることが仕事の大半だった時代はもうとっくに過ぎ去って、多くの人が従事する仕事は、今やとてつもなく曖昧で抽象的なものになっている。コミュニケーションだったり、コンセプトを考えることだったり、記号の解釈や意味付け、操作、そんな領域の仕事が物凄く増えてるのだ。

となると、「本を読む」ってことが、仕事のかなり広範囲に渡って影響を与える、ということは十分ありえる。もちろん内容云々はあるのだろうけど、でも、単純に沢山の言葉や文章を読む、カラダに取り入れるというだけでも、仕事に良い影響をもたらすかもしれない。小説だって、主人公や登場人物の考え方や認識の仕方を知ることが業務に役立つかもしれない。
よく考えてみたら、こんなことは「読書」に限ったことではない。「旅」だって、「雑談」だって、なんでも仕事を良くしたり、パフォーマンスを上げたり、新しいアイディアを生み出したりすることに繋がるかもしれない。それが仕事のアウトプットの質やら量やらを各段にアップさせるかもしれない。

では、こういう考え方もできるかもしれない。
仕事は「アウトプット」が大事。アウトプットする場所だと。だから、基本「インプット」は業務時間外にやるべき。少なくとも、直接分かりやすく明確に「アウトプット」に繋がらない「インプット」は、業務時間外に取り組むものだ。

仕事によっては、何か資料を作ったり、戦略を考えたりするために、調査が必要なものもある。ネットサーフィンしたり関連書籍を調べたり。これはアウトプットに直接関係するインプットなので業務時間内でもOK。一方で、「新聞を読む」ことは、何かの役に立つかもしれないし、一般教養として知っておいた方がコミュニケーション上大切だとは思うが、直接何かしらのアウトプットに繋がるインプットではない。こういうインプットはNG。こんな考え方はどうだろう。

これはかなり無理があるなと思う。分かりやすくアウトプットに繋がるインプットだけをOKにするって言っても、アウトプット/インプットって上記で説明したような、そんなに分かりやすく整理できるわけでもないだろうし。例えば、「雑談」とかね。雑談ばっかりやってたら仕事は出来なさそうだけど、適度な雑談から事業や商品のアイディアが生まれることはあるだろうし、チームワークを良くするにも有効だったりする。

何が仕事に繋がるのか、役に立つのかなんて、インプット前にはよく分からないことだって沢山ある。なんとなくぼんやり「範囲」や「あたり」はあるんだけど、でも、よく分からない、みたいな。実際、インプットしても全然直接のアウトプットには繋がらないな、ってこともよくある。

こんな考え方もある。
別に業務時間に何してようが関係ない。「成果」さえ上げていればそれでいいんだ。「成果」至上主義とでも言うのだろうか。

僕はこういう考え方もあまり好きじゃない。
「成果」が全てとか、成果上げてりゃ、何やってても構わない、というのは、これまた極端すぎる考え方だと思うし、「成果」だって実はすごく曖昧なものだと思ってる。

少なくとも「成果がすべて」みたいな文化の会社には僕はしたくない。自分自身がそんな会社で働きたくない。働くとか仕事って、お金を稼ぐための手段でもあるけど、でも人生の豊かさとかウェルビーイングなんかとすごく密接な関係があると思ってる。成果ばかり求められ、成果だけで測られ、成果だけで評価されるって、全然豊かじゃないなと。単に個人の好き嫌いの感想なんだけど。

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先にも言ったように、僕も何がよいのか、よく分からない。なので数か月後には、全然違うこと言ってる可能性もあると思う。

ただ、今は僕はこんな風に考えてる。
結局のところ、何が仕事で何が仕事でないか、それは本人にしか決められない。本人がこれは仕事として重要だと思うなら、それは仕事なんじゃないか。そんなこと言ってしまうと身も蓋もないかもしれない。でも、そうしておくしかないんじゃないかなと思ってる。

無理にルールや制限を作ったら、仕事しにくくなるだけじゃないだろうか。何が仕事で何が仕事でないかを明確に線引きしようとすればするほど、今の仕事はやり難くなるだろう。

とは言っても、殆どの仕事は「誰か」と連携して行うし、複数人で役割を持って取り組むものだ。周りの人達に、自分の行為がどう見えるか、周りがどう思うか、そういう想像力は働かせないとはいけないと思う。

良く分からないけど重要だと思うからって、ひたすら業務時間に「インプット」しかしてない人がいたら、それは周りも「おいおい」ってなる。周りの目も適度に気にする必要はある。

当然、現状の自分の役割や求められてること、条件も考慮しないといけない。今やってる仕事とは何の関係もなさそうに見えるものを、5年後10年後に重要だから、なんて理屈で勉強してたら、それを周りが納得するのは難しいと思う。

なんにしてもバランスは大事だ。
インプットとアウトプットのバランスもそうだし、どれぐらいの時間軸で考えてるか。どれもバランスを取らないといけない。

周りにもその理由や必要性を理解してもらう必要はある。これはかなり難しいことだと思うけど。でも、本人が仕事としてそれが大事だと思ってるなら、周りに説明して説得する、理解してもらってでもやるべきじゃないかなと思う。

逆に、周囲の人たちもある種の寛容性を持って他人の仕事に向き合っていく必要はある。人はどうしても、自分の考えや行動パターンを他人にも当てはめて考えてしまいがちだ。リモートワークで自宅での仕事が余儀なくされた時、自宅ではなかなか集中できない、仕事が捗らないって人がいる。そういう人は、自分以外の大半の他人も「そういうものだ」と考えてしまいがちだ。でも、当然、会社行くより自宅で仕事してるほうが捗る、って人だっている。そういう人が少数派というわけでもない。意外と人は、自分は「多数派」「一般的な見解を持ってる」と思ってるもので、その自分の考えから外れる人を「少数派」だと意識的にせよ無意識にせよ思ってしまう傾向はある。そういう「自分」を基準にした物差しだけで、人を見ない、判断しない、そうなってしまってないか気を付ける。そんな心掛けが求められる。自分にとって「仕事じゃない」行為が、他人にとっては重要な仕事だったりするかもしれない。

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ちなみにこの文章は殆ど何の考えもなく、結論もなく、とりあえず書き始めてしまったものだ。でも、ここまで書いてきて、ふと、こういうのが自律であり、自律した人同士の関係の理想なんじゃないかと思った。自律型組織の前提として、まず、自分で自分をきちんと管理して、色々なことを自分で決めて、その責任を自分で引き受ける、ということが求められる。一方で、他人の自律も認めるという寛容さや覚悟も求められる。そんなうまいこと行くかいな、という声はあちこちから聞こえてくる。僕もそれはとてつもなく難しいことだとは思ってる。でも、自律、自律型組織を目指すということは、こういう難しさに向き合うことなのかもしれないなと。

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