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自己嫌悪の無意味さ?

手元に本がないので正確なことはわからないが、岸田秀が「自己嫌悪」は意味がない、みたいなことを言っていた。内容はこんな感じだったと思う。

自己嫌悪というのは、嫌悪される対象として自分と、嫌悪する主体としての自分があって成立する。嫌悪される対象の自分というのは、いらんことを言ったり、やっちゃったりしてしまった現実の自分だ。

たいていの場合、嫌悪対象となる言動やら行動やら思考みたいなものは、そのときの欲求や衝動から生まれていて、つまり後々で嫌悪の対象にはなってるけれど、その瞬間ではそういう行動や言動をとりたかったのであり、そういう行動をとって気持ちよかったということだと。

嫌悪される主体(つまり「いらんことをやったり言っちゃったりする自分」)が現実に立脚した「自分」であるのに対して、嫌悪する主体の方はというと、なんら現実に立脚しているわけでもない。

その自己はあくまでも理想の自分像、本来の自分ならそんな馬鹿なことはしない、言わないと、自分が勝手に思ってる架空の自分像に過ぎない。

どうしてそんな架空の自分をつくり出して、わざわざ現実の嫌悪するような行動や言動をとってしまう自分を批判するのかというと、理想の自分と現実の自分とのギャップを埋めておきたいからだ。

つまり、本来の自分はそうじゃないという担保を架空の自分が求めているということ。自己嫌悪される側の何かしでかしてしまってる自分があくまでも本当の自分なので、ただ、架空の自己が自己嫌悪してても、「本当の自分はそうじゃないんだ」と自分に言い聞かせてるので、現実の自己には何の効力も持たない。なので、自己嫌悪なんて意味がない。

こんな感じの内容だったと思う。

僕自身、よく調子にのってハメを外してしまい、色んな人に迷惑をかけることが多く、そのたびに自己嫌悪に陥ってるわけだけど、嫌悪しているボク自身は、そんなハメを外した自分は「本当の自分ではない」と無意識に思っている節があり、ついついその場の勢いや流れでそういうことをしてしまっただけで、本来なら、本当の自分なら決してそんなことはしなかったのだと正当化している。

しかし、おそらく周りから見たら、ハメを外しているボクが本来のというか、ボクそのものなのだろうと思う。お恥ずかしい限りだ。というようなことを考えてると、さらに自己嫌悪に陥ったりするのだが….

自己嫌悪に陥ってる場合ではない。自己嫌悪に陥って、理想の自分と現実の自分の間を都合よく取り持って、自分でバランスつけたって意味はない。まず、自分が最低の人間だと認めることだ。まず、それが本当のどうしようもない自分であることを直視しなければ、自己嫌悪に陥ってたって何も変わりはしないだろう。

よく人で周りの人が自分のことをわかってくれない、と嘆く人はいるが、周りの人は素直にそのままその人の現実に即した行動や態度からその人を判断している。でも、理解されないと嘆いているその人には、多分、それとは別に、自分は本来こうだという自分像があるのだろう。でも、そんな自分像が、他者からの自分像とは全く違うことを理解しないといけないだろう。自己像がいかに都合よくつくられているかも理解しておく必要があるだろうと思う。

(この記事は、2011年2月に自身のブログに投稿したエントリーをnoteに再編集して移行させたものです)

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