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知っているようで全然知らない!? 日本のミュージックビデオの歴史

某編集部に頼まれてリサーチしたのですが、その後音沙汰がなくなりました。原稿にする以前の叩きの状態ですが、それなりに調べたものを眠らせるには、あまりにも惜しいので世に出します。

(取材・文/千駄木雄大)

 1981年にアメリカで「MTV」という、24時間ミュージックビデオ(以下、MV)を放送する音楽専門チャンネルの台頭によって、音楽の視聴の仕方は大きく変化したというのは、もう40年も前の話。

 今ではYouTubeで気軽に視聴できるようになったMVだが、海外のMVの歴史と比べると、日本のMVの変遷はあまり語られることはない。

 そこで、ここでは日本のMVは時代とともにどのように変化していったのか、過去の名作とともに振り返りたい。

■80年代

 MTV開局同年の81年に、小林克也氏がMCを務める「ベストヒットUSA」(テレビ朝日系)が、84年にはピーター・バラカン氏が洋楽MVを紹介する「THE POPPER’S MTV」(TBS系)が深夜に放映開始されたことで、MVは世間でも認知された。ただし、当時の日本は「ザ・ベストテン」(TBS系)「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ系)など、生放送の音楽番組が全盛期だった。
 
 そんな時代でも日本のアーティストによるMVは存在しており、例えばYMOの「ライディーン」(79年)「テクノポリス」(80年)などの楽曲のMVが収録された『COMPUTER GAME』(83年)は有名だが、ほかにも84年には山下久美子の『アニマ・アニムス』の楽曲で構成された、53分にも及ぶ全編ストーリー仕立てのビデオ・クリップ集『黄金伝説』も発売されていた(後者はなぜか昨年、36年越しでDVD化した)。
 
YMO「テクノポリス」(80年)

 山下久美子「アニマ・アニムス」(84年)

 そして、80年代後半にもなると、テレビ神奈川(現:tvk)で放送されていた「ミュージックトマトJAPAN」や、88年にはEpicソニー(現:Epic Records Japan)の所属ミュージシャンのMVを放送する音楽番組「eZ」(テレビ東京系)など、邦楽MVを視聴する機会も増えていき、89年に日本初の音楽専門チャンネル「スペースシャワーTV」が開局。日本でもMVが制作されていくこととなる。

■90年代

 90年代に入ると、家庭用ビデオが普及していったことから、いくつかのMVをまとめたクリップ集や、ライブ映像を収録したVHSが雑誌でも取り上げられるようになる。

 例えば「オリコン」(オリコン株式会社/91年2月4日号)では「最新ミュージックビデオ・カタログ」と題して中山美穂のヒット曲の5曲のMV が収録された『LOVE SUPREME』(90年)や、『ウォルト・ディズニー・ワールド7日間の旅』(91年)というフロリダのディズニー・ワールドで遊ぶ光GENJIのメンバーの様子と、ビデオ・オリジナル曲も収録されたVHSなどが紹介されている。値段は4300〜6000円と、今の時代からすると少し高価な気もする。
 
 そして、92年には「MTV」の日本版放送が開始。さらに、93年には全国区の民法地上波でもランキング発表にMVを使用したチャート番組「カウントダウンTV」(TBS系列)が始まる。
 
 この時期はビーイング所属のT-BOLANによる「離したくはない」(91年)、トイズファクトリー所属のMr.Childrenによる「Tomorrow never knows」(94年)や、エイベックス所属のTRF「survival dAnce ~no no cry more~」(94年)など、ミリオンヒットが連発されており、こうしたアーティストのMVもこれらのチャンネルや番組などでも放送された。
 
T-BOLAN「離したくはない」(91年)

Mr.Children「Tomorrow never knows」(94年)

 TRF「survival dAnce ~no no cry more~」(94年)

 ただし、「ミュージックビデオはレンタル禁止の商品が多い」といった縛りがあるように、当時のMVは基本的に「プロモーション・ビデオ(PV)」であり、シングル曲の販促・宣伝用素材のひとつに過ぎなかった。

 そのため、サビの箇所だけではなく、フルサイズで視聴するには、CDショップに行くか、ケーブルテレビに加入してないと「なかなか見る機会がない」ものでもある。その一方で、TVスポット(MVをCM 用に15秒、30秒に編集した映像)や、テレビ番組のエンディングテーマに起用された楽曲のMVが使われていくことで、MVそのものに広告的な価値がついた。
 
 また、90年代前半はMV黎明期というように、海外で撮影したイメージ・ビデオのような、シンプルなものが多かったが、竹内鉄郎氏が監督を努めたウルフルズの「ガッツだぜ!!」(95年)は後に「ビデオクリップの歴史に残る名作」と言われるほど、日本のMVの歴史におけるひとつの転換点となる作品となった。

 トータス松本が扮する殿様が暗殺者に吹き矢を喰らわされて倒れ込むが、観衆たちの「ガッツだぜ、ガッツだぜ」コールで復活するという内容で、バンドのブレイクのきっかけとなった同作は、そのインパクトの強さから96年から始まったSPACE SHOWER MUSIC AWARDSで「VIDEO OF THE YEAR」の初代受賞作品となった。

ウルフルズ「ガッツだぜ!!」(95年)

 また、デビュー曲「眠りによせて」を、ビデオシングルとして発表したL'Arc〜en〜Cielは、MVディレクターの竹石渉氏による「DIVE TO BLUE」(98年)「HONEY」(98年)「Driver's High」(99年)など、楽曲だけではなく、MVでも注目を集めており、「Pieces」(99年)「STAY AWAY」(00年)で、2年連続でSPACE SHOWER MUSIC AWARDSの「VIDEO OF THE YEAR」を受賞。

L'Arc~en~Ciel「Driver's High」(99年)

 X JAPAN解散後のhide with Spread Beaverも、丹修一氏が監督を努めた「ROCKET DIVE」「ピンクスパイダー」(共に98年)のMVが話題となり、後者は98年のVIDEO OF THE YEARを受賞している。

■00年代

 VHSからDVDへと時代も移り変わり、MV集やライブ映像の音楽DVDだけではなく、MVが収録されたDVD付きのCDも当たり前になった。

「日経エンタテイメント」(日経BP社/2003年8月号)によると「邦楽アーティストで初めてDVD付きCDを発売したのは、川瀬智子(ザ・ブリリアントグリーン)のソロユニット、Tommy february6だ。01年7月発売のデビューシングル『EVERDAY AT THE BUS STOP』は、MVや振り付け映像が収録されたDVDが付いた2枚組。セールスは10万枚を超えた」とのこと。

 同記事によるとこのCD+DVDの2枚組は03年に入ってから急増したという(ちなみに、この時期も音楽DVDのレンタルは禁止)。
 
 とはいえ、この頃もMVは「リリース時期を逃すと、観る機会がぐっと減る」という存在であることには変わりがない。しかし、CGやアニメーション、ダンスや合成編集などを駆使した、手の込んだ映像作品も増えていき、人気のMV監督も登場していく。
 
 例えば「youthful days」(01年)「くるみ」(03年)「箒星」(06年)「GIFT」(08年)など、Mr.ChildrenのMVを数多く手がけてきた丹下紘希氏や、BUMP OF CHIKENの「天体観測」(01年)「車輪の唄」(04年)などのMVを監督した番場秀一氏、「MUSIC」(06年)などCorneliusのMVを多数手がけてきた辻川幸一郎氏などの作品は、「広告批評」(マドラ出版)などメディアでも度々取り上げられ、SPACE SHOWER MUSIC AWARDSでもさまざまな賞を受賞している

Mr.Children「くるみ」(03年)

 BUMP OF CHICKEN「天体観測」(01年)

 CORNELIUS「MUSIC」(06年)

 また、数々のアーティストたちのCDジャケットを手がけてきた木村豊氏が監督を務めた、椎名林檎がナース服姿でガラスを割る「本能」(99年)と、彼女が所有するベンツを真っ二つにした「罪と罰」(00年)、紀里谷和明氏がCGを駆使してカラフルな世界観を描いた宇多田ヒカルの「Travelling」(02年)、YUKIと同じメイク、同じ格好の大量のそっくりさんたちが登場する(故)野田凪氏の「センチメンタル・ジャーニー」(03年)も、当時話題となった。 

椎名林檎「罪と罰」(00年)

 宇多田ヒカル「traveling」(02年)

 YUKI「センチメンタルジャーニー」(03年)

 05年にはYouTubeも登場したことで、インターネットでもMVを視聴できるようになったが、それらのほとんどが違法アップロードだったため、レコード会社はYouTubeなど、インターネットでのMV公開を規制する方向になる。ただし、iTunes Music Storeなどでは有料配信されており、iPodやPSPにダウンロードして視聴することができた。
 
 そして、00年代後半。その後、10年代の日本のMV界の中心人物となる、当時の若手クリエイターの児玉裕一氏、島田大介氏、田中裕介氏、関和亮氏は、東京事変の「OSCA」(07年)、10-FEETの「STONE COLD BREAK」(07年)、APOGEEの「1,2,3」(09年)、Perfumeの「ワンルーム・ディスコ」(09年)と、それぞれ印象的な作品を発表している。

 東京事変「OSCA」(07年)

 10-FEET「STONE COLD BREAK」(07年)

 APOGEE「1,2,3」(09年)

 Perfume「ワンルーム・ディスコ」(09年)

■10年代

 2010年代に入ると、YouTubeも全盛の時代ではあるが、当初はレコード会社もフルサイズのMVではなく、サビだけといったTVスポットのようにMVをインターネットで公開するに留まる。
 
 また、00年代にMV監督として活躍していた辻川幸一郎氏、児玉裕一氏、田中裕介氏、関和亮氏などが、CMの監督も務めるようになり、CMとMVの監督の垣根がなくなりだす。

 そして、クリエイティブ・ディレクターの川村真司氏が監督したandropの「Bright Siren」(11年)のMVは、多数のスチールカメラを並べて、そのフラッシュを利用して文字やアニメーションを表示した力作で、SPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDSで特別賞を受賞したほか、アジア最大の国際広告賞「ADFEST2012」では「Bell」のMVと併せて4部門で7カテゴリーを受賞する。

androp「Bright Siren」(11年)

  そして、11年頃からようやくレコード会社もYouTubeでの配信を解禁したことで、長い間、日本ではケーブルテレビか店頭でしか視聴することのできなかったMVが身近に見られることとなる。

 さらに、田中潤氏が監督したきゃりーぱみゅぱみゅの「PONPONPON」「つけまつける」(共に11年)のMVは、YouTubeを通して国外でも視聴されたことで、彼女は国際的な人気を獲得した。きゃりーぱみゅぱみゅ「PONPONPON」(11年)

  また、10年代はこれまで紹介した若手ディレクターたちによる、サカナクションのMVが常に注目を集めた。関和亮氏は「アルクアラウンド」(10年)を監督し、田中裕介氏は「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」(11年)を手がけ、島田大介氏は「目が明く藍色」(14年)でサカナクションの世界観をMVで伝えた。さらに「アルクアラウンド」と「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」はSPACE SHOWER MUSIC VIDEO AWARDSでVIDEO OF THE YEARを受賞する。

サカナクション「アルクアラウンド」(10年)

 サカナクション「バッハの旋律を夜に聴いたせいです。」(11年)

  他方でMVとCMの監督の境目がなくなったように、映画監督や写真家など、MVが本職ではないクリエイターたちの作品が増えていく。

 例えば写真家の蜷川実花氏が当時社会現象を巻き起こしていたAKB48の「ヘビーローテーション」(11年)のMVを担当したり、ドラマ『バイプレイヤーズ』(テレビ東京系)の監督である松居大悟氏は、橋本愛と蒼波純が出演する大森靖子のMV「ミッドナイト清純異性交遊」(13年)と、このMVをもとにした長編映画『ワンダフルワールドエンド』を同時に制作。

 さらにクリープハイプの「憂、燦々」(13年)などのMVを手がけ、13年には尾崎世界観の原案をもとに、『自分の事ばかりで情けなくなるよ。』という映画を作り上げる。

AKB48「ヘビーローテーション」(11年)

 大森靖子「ミッドナイト清純異性交遊」(13年)

  そして、松居大悟氏をはじめとした若手映画監督の作品を公開する映画祭「MOOSIC LAB」出身の映画監督たちも、インディーズバンドからアイドルまで、ジャンル問わずにさまざまなアーティストのMVを担当していく。
 
 その結果としてか、ある程度MVがフォーマット化していき、岡崎体育が「MUSIC VIDEO」(16年)を発表。「MVあるある」を歌詞と映像で表現し、ヤバイTシャツ屋さんのボーカルである、こやまたくや氏が「寿司くん」名義で撮影したMVは、17年に第20回文化庁メディア芸術祭で「エンターテインメント部門 新人賞」を受賞する。

岡崎体育「MUSIC VIDEO」(16年)

  その一方で、00年代は若手クリエイターというカテゴリーに属していたMV監督たちも、継続して話題作を発表していく。

 リオ五輪閉会式の五輪旗の引き継ぎ式におけるパフォーマンスの制作チームの映像を担当した児玉裕一氏は、同年宇多田ヒカルの「二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎」(16年)を手がけ、関和亮氏による星野源の「恋」(16年)はYouTubeで2億回以上再生され、17年のSPACE SHOWER MUSIC AWARDSでVIDEO OF THE YEARを受賞した。

星野源「恋」(16年)

■20年代(+10年代のアニメMV)

  YouTubeでのMV視聴が当たり前になっていくと、アニメーションのMVも増えていく。中島愛の「Transfer」(12年)はファンタジスタ歌麿呂氏と池田一真氏が監督を務め、アニメーターの久保田雄大を中心としたアニメーターたちが、同じ展開の繰り返しながらも、さまざまなシチュエーションを描いた。

livetune adding 中島 愛「Transfer」(12年)

 さらに『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』などで知られるアニメーションスタジオのA-1 Picturesは、Porter Robinson & Madeonの「Shelter」(16年)を手がける。

 そして『キルラキル』のキャラクターデザイン・総作画監督でもおなじみのすしお氏が、ももいろクローバーZとKISSによる異色のコラボ曲「夢の浮世に咲いてみな」(16年)の前半のアニメパートを制作。大手のアニメ制作会社やプロのクリエイターによる海外アーティストのMVで話題を呼んだ。  

ももいろクローバーZ vs KISS「夢の浮世に咲いてみな」(15年)

 その後も「僕らまだアンダーグラウンド」(19年)などで知られるEveや、代表曲に「言って。」(17年)「盗作」(20年)があるヨルシカのように、顔出しをしないインターネット発のボカロPやシンガーソングライターがブームになると、彼らのアニメのMVも注目されていく。

「僕らまだアンダーグラウンド」(19年)

 ヨルシカ「言って。」(17年)

  そして、20年代になると、イラストレーターとアニメーターの2人など、少人数でMVを制作することも当たり前となる。YOASOBIの「夜に駆ける。」(19年)は東京藝術大学デザイン科在学のアニメーション作家・藍にいな氏が、ずっと真夜中でいいのに。「お勉強しといてよ」(20年)は、はなぶしとヨツベという2氏のアニメーターによって、Adoの「うっせえわ」(21年)は動画クリエイターのWOOMA氏が手がけている。

YOASOBI「夜に駆ける」(19年)

 ずっと真夜中でいいのに。「お勉強しといてよ」(20年)

 Ado「うっせえわ」(21年)

 このように、MTVの上陸当時から、その影響はもちろん受けつつも、独自に進化を遂げた日本のMV。今では特別な機材はなくても、ひとりですべてを制作することもできるため、これまでは限られたチャンネルで、一部の有名アーティストのMVしか放送されなかったが、これからはMVの評判が良ければ、名が知られてなくとも、一気に「バズり」、注目されていく可能性は大いにあるだろう。

(取材・文/千駄木雄大)


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