『汝、星のごとく』の感想

初回は、凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』の感想です。最初に断っておきますが、完全にネタバレするのでそれが嫌な人は読まないでください。

凪良ゆうさんのことは、最初部活の後輩から彼女の『流浪の月』を紹介してもらって、初めて知りました。それが今年の夏くらいだったでしょうか。その本がまあまあ面白くて、暇な時にもう一冊読んでみるか、みたいな感じで読み始めたのがこの本だった気がします。

僕にとって凪良ゆうさんの本二冊目になる『汝、星のごとく』は、それまで小説を読んでこなかった僕にとっては衝撃的で、これを読んでから小説を読む人間に変わりました。笑

それだけいい小説だったので、今回はその感想です。この本を読んだ友達二人と感想を話す時間を作って、僕の捉え方もそこそこ深まったので、書いていこうと思います。

この話は、青埜櫂(あおのかい)と井上暁海(いのうえあきみ)の二人の恋愛を描いています。

この二人はお互いに家庭環境が恵まれておらず、櫂の母親は常に男に遊ばれては捨てられるのを繰り返しながら振られて子供に泣きつくというどうしようもない人で、暁海の家庭は父親の不倫で母親のメンタルがボロボロという状態でした。

櫂はおそらくストレスから高校生にも関わらず酒を飲んでおり、その匂いがわかる暁海に声をかけられます。お互いの置かれた環境を知り合いながら、二人は同調圧力の強い小さい島の田舎社会の中でノーマルから外れているもの同士惹かれ合い、付き合うことになったのでした。

暁海の母親が精神を病み、ある事件を起こしたときに、ボロボロなメンタルの状態の暁海と櫂は二人は砂浜で空を眺めて、夕星(ゆうずつ)を見ます。

〜以下引用〜

どちらもなにも話さない。ただただ波音を聞きながら暮れていく空を見る。
「・・・・・・夕星やな」
西の空の低い位置に、たった一粒で煌めいている星を見つけた。
「ゆうずつ?」
暁海が首だけをこちらにねじる。
「一番金星。宵の明星。金星」
「夕星っていうの知らなかった」
「朝もでよる。そっちは明けの明星で赤星」
「そんなに呼び方があるんだね」
「同じ星やのに、おもろいな」
なんてことない会話に安心した。大袈裟な言葉は使うほどに関係を削る。
「東京でも見えるのかな」
「そら見えるやろ。けど島から見る方が綺麗やろな」
「ちょっと霞んでるのも味があるよ」
なんやそれと笑い、同じタイミングで手を差し出した。繋いだ手から熱が伝わってくる。どこまで続くかわからない。けれど続くところまで共に歩きたい。
お互いの目に同じ星が映っているうちはー。

〜引用終わり〜

僕の考えでは、ここがこの小説のコアです。

その後、櫂は友人と書いていた漫画の連載がうまくいって、地元で就職した暁海とは遠距離恋愛をすることになります。しかし、仕事がうまくいくと忙しさや有名人になったことで寄ってくる女性と浮気したりして、暁海との関係が悪化していってしまいます。そして、自分のことを見てくれない櫂に対して、暁海が「別れよう」と告げることになってしまいました。

暁海はというと、櫂と別れてから精神を病んだ母親の面倒を見ながら良い収入が見込めない仕事をしなければならない典型的なヤングケアラーになります。

暁海がやっとのことで経済的困窮から抜け出したときには、今度は櫂が仲間のスキャンダルで仕事が頓挫し、人生詰んだ状態になっていました。そして、高校時代からウイスキーを飲みまくっていたためかガンになり、回復の見込みがないほどに悪化してしまいます。

ふたりはお互いに人生の浮き沈みを経験しながらもお互いの心の中から存在を消し去ることがなかったので、櫂がその状態であることを知った暁海は、櫂が入院している病院に駆けつけます。

そして、櫂が高校生、社会人のときに叶わなかった島から見える花火を見たいと言ったので、櫂が死ぬことを覚悟しながら、暁海は櫂と花火を見にいくことを決意します。浜で花火を待つラストのシーンも重要なので引用しましょう。

〜引用〜

「あ、金星」
結ちゃんの声が聞こえた。西の空の低い位置に小さく光る星がある。
「高校生のころ、一緒に見たね」
「東京でも見た。見えん時の方が多かったけど」
「わたしも」
ぽつぽつと話をしている間にも、太陽の朱色を押しやって澄んだ青が増していく。水平線を縁取るいくつもの島影も、空も、海も、青い群青に沈んでいく。
「寒うなってきた」
櫂が言い、カバンから厚手のブランケットを取り出して一緒にくるまった。八月の夜は蒸し暑く、私の額からは汗が流れ落ちる。なのに繋いだ櫂のては少しずつ熱を失っていく。
まだ、と心の中でつぶやいた。
まだ、まだ、まだ花火は上がっていない。
もう誰の声も聞こえない。みんな黙り込んでいる。左側にいる櫂の呼吸が波音にさらわれそうに頼りなくなっていく。わたしはもう叫び出しそうだ。
早く、早く、上がって。
まだ、まだ、いかないで。
あまりに強く祈りすぎて目の奥が痛くなってきたとき、遠くでかすかに音が弾けた。
反射的に見上げた対岸の夜空に光が瞬いた。
思わず櫂の手を強くにぎりしめた。
応えるように、ほんの少し櫂がにぎり返してくる。
揺れながら地上から放たれて、不意に姿を消したあと、遥か夜空で花開く。次々と打ち上がり、途切れ目なく重なり合う光と光。瞬きをするほんのわずかな間、とてつもない熱量で闇をなぎ払い、力尽き、尾を引いて海へと落ちていく幾千の星たち。
綺麗だね。
櫂の手を握りしめる。
櫂はもう握り返してこない。
煌めきながら散っていく、あの星たちの中にいるのだろう。

〜引用終わり〜

こうして櫂がこの世をさったあと、櫂が書いた小説が暁海に届きます。そのタイトルは、『汝、星のごとく』でした。こうしてこの話は幕を閉じます。

さて、この物語は大きく二つのテーマを描いているので、そのテーマをサクッと概観してみようと思います。

まず、社会のノーマルから外れた人間同士が「分かり合う」というテーマです。

そして、その関係性は「夕星」のようであるというテーマです。

僕は、前者は放置して、二つ目について書いていこうと思います。

この小説で、夕星は明らかに櫂と暁海の関係性のメタファーとして機能しています。

夕星は、島では(つまりお互いが社会のノーマルから外れた存在であるときには)よく見えるものであり、都会では(つまりお互いがノーマルであるときには)霞んでみえるものなのです。

櫂にとっての都会での恋愛(浮気でしたが笑)は、暁海との恋愛とは全く異質なものでした。暁海との関係性は自分が追い詰められているときにこそその大切さが身に染みてくるものだったのに対して、他の女との恋愛は全てが上手くいっているときにしか上手くいかないものだったと言えます。

これは暁海にも言えることで、この小説を通して一貫しています。

だから、最後の花火を見る浜のシーンで夕星を見て、

「高校生のころ、一緒に見たね」
「東京でも見た。見えん時の方が多かったけど」
「わたしも」

という会話になったのでしょう。

そして、櫂は死後暁海に届くように手配していた小説の名前を、『汝、星の如く』にしました。

死を間近に感じた櫂は、自分に仮の自信を与えてくれたあらゆる社会的なものを失って、自分に本物の自信を与えてくれる暁海の存在を、夕星そのものだと感じたのだと思います。

人は誰しも寂しさからくる不安を持っていて、根源にあるその不安から逃れるために自信を求めます。

そのために、いろんな自信をくれるものを追い求めます。

櫂と暁海の関係は、愛し合うことに理由などありませんから、無条件に自信を与えてくれるものでした。

それに対して、社会的なものは確かに自信を与えてくれますが、常に条件付きなのです。

人間が求めているのは、自信そのものです。

そして、それは無条件に与えられるものであってほしいのです。

でも、社会を見渡してもそんなものは一つもありません。どんなに仕事で成功しても失敗することはあるのです。僕は武術をやっていますが、強さで自信をつけようと思っても(僕はそんなこと思っていませんが笑)怪我したら終わりです。そうなったとき、自信を与えてくれていたものはなくなります。

凪良ゆうさんは、意図してか意図せずか、このことを描いていると思います。

ただ、凪良ゆうさんが、恋愛にそれが可能だと考えていたのか、不可能だと考えていたのかは、わかりません。もしかしたら、二人にとってお互いがかけがえのない存在になったのは櫂が死んだから可能だったのかもしれません。

高校生のとき夕星を見上げたときも、2人はその関係性の頼りなさから、より強く手を握りしめあっていたようにも読めます。

そして、最後のシーンで、櫂は夕星のように星空の中の星の一つになるのではなく、一瞬輝いて散っていく花火の光という意味での星の一つになっているように読めます。

凪良ゆうさんは、リアリストなのかロマンチストなのか、どっちなのでしょうか。笑

ちなみに僕は哲学をやってるので、完全にロマンチストです笑笑

今からロマンチストの解釈に入ります。笑

宗教を信じなければ、無条件に自信を与えてくれるのは、愛してくれる人しかいません。

本当に求めていたものを、櫂と暁海は櫂が死ぬことになってお互いに気づいていったのでしょう。

だから、暁海は櫂が死んでも、「夕星やな」という言葉を、彼が飲んでいた酒の香りと共に思い出すのです。

だから、櫂がこの世をさったあと、周囲の人間の評価は暁海の心を動かすことはなくなっています。

人の心に存在する根源的な不安と自信を求める心は、おそらく宗教の源泉です。

宗教におけるその解決方法は、自分自身がこの世界を存在させていると気づく(自分自身が神であると気づく)か、もしくは無条件に存在を肯定してくれる神をみるかの二択です。

本質的には、両方とも同じですよね。

それ以外の道は、この小説が描くように恋愛(に限らないかもしれませんが無条件に肯定し合える人間関係)なのでしょう。

僕はこの小説を読んで、凪良ゆうさんは天才だなと思いました(笑)。

きっと哲学や神学をやっても有名になれたんだろうと思いますが、それよりも才能が求められる小説の分野でここまで書き上げているのですから、本当に尊敬です。

昔、ある人が自分を愛してくれる人がいるのが不思議だと言っていたのを覚えています。

理由がわからないのに愛してくれるのを実感できていた彼は幸せな人生を歩んでいるんだなと思ったのを、この小説を読んで思いました。

当たり前のものが当たり前ではないのを感じたとき、人は奇跡を感じるようになります。それに気づくことは、キリスト教的な言葉を使えば福音です。

そしてその当たり前ではないことに気づくことができるのは、愛されている感覚があるからでしょう。でなければ、不安によって目を逸らすしかないのですから。

仏教的には、世界がありのままに見えないのは、目が明らかではない、つまり無明の状態だからであって、自分と宇宙が等価な存在だと分かっていないということだと言います。つまり、自信がないから世界を照らす光が心に灯っていないのだというのです。

この世界を照らす光を仏教では拠り所といいますが、拠り所を持つには神に愛されるか、自分は神だと知るか、愛してくれる人との出会いを得るかなのかもしれません。

二人の境遇は、社会的な次元で見れば、ヤングケアラーとか恵まれない家庭環境とか色々言えるのかもしれませんが、彼らにとっては普通の人が持つ当たり前など存在していなかったから、世界を照らす光が必要だったということもできるのではないでしょうか。

そんな二人が愛し合える相手を見つけられたことは、相手は神ではありませんが、まさに福音ですよね。

いい小説でした^ ^

*もちろん凪良ゆうさんにインタビューした訳ではないので、僕が抽出したテーマは全て幻覚であるかもしれません。なのでこの解釈が正しいという訳ではなく、あくまで個人の感想です。いろんな読み方をして楽しめるのが小説のいいところですよね^ ^ 
だから「この解釈は間違っている!!!」とかコメントしないでくださいね〜笑


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