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ヨガのあと、女友だちと

正座になった私たちは頭上にまっすぐ伸ばした両手をゆっくり下ろしてくる。
肘が胸のあたりにきたところで両手を前に差し出して、腕で円を描くようにしながら良い「気」を胸元に引き寄せる。抱きかかえる。
最後に合掌。

「ありがとうございました」
先生のひと言が静かに響き、生徒たちも同じ言葉を返すと、一時間半のヨガ教室が終わる。
体と心がゆるんだ直後はみな放心したようになり、ほとんど言葉もかわさずヨガマットを丸めている。
世界じゅうの音が陽の光に吸収されたような、小春日和のようなひとときが流れる。

が、隣の部屋に女たちがひとりまたひとりと着替えに入り始めると、小春日和の静謐はまたたく間にとりとめのないおしゃべりに取って代わられる。

月三回のヨガに通い始めて二年になる。
十年ほど前、習いかけたことがあったのだけど、人づきあいが煩わしくなってしだいに足が遠のき、自然消滅したままになっていた。
再びヨガに誘ってくれたのは、私の行かなかった十年間教室に通いつづけた友人だった。
最近冷えがひどくて、肩や首がこわばって。
そうこぼした私に、「よかったら初日だけでものぞいてみない?」と彼女は声をかけてくれた。同じ教室でヨガ教師の資格を取ったひとが新しく教室を開くことになったからと。

友人はひとに会うのが大好きで、だから外に出るのが大好きで、そろそろ連絡がくるかなと思ったころに、「どこかでランチしよう」とか「ねえ今から会いに行っていい?」と電話をかけてくる。嫌なことはすぐに忘れてしまう、あっけらかんとした性格だ。

「この私がね、開脚できるようになったんだよ」
ある日私の家のリビングで彼女はいきなり床に座り込み、脚を百二十度くらいに広げて上半身をぺたんと床につけてみせた。
ほらね。
「すごい!」
彼女も私も体が硬くて、たしか一緒にヨガを始めたころは上半身を前に傾げても床に掌がつくだけだった。
「開脚できるようになるとね、血液がざあっと全身にめぐる感じがして、なんだかそれまでの自分と違う感じになった気がした」

その感じを私も味わってみたくなった。
それまでの自分とは違う自分というものを体で感じてみたくなったのだ。

再開して二年たつけれど、ときどき休んでしまうせいか上半身はまだ床に貼りつかない。
けれど肘まではつくようになった。
「そこまでできるようになれば上出来ですよ。ゆっくりいきましょう」
先生は毎回明るい声で言う。
押しつけがましくない明るさだ。部屋に入ってきたら室内の明度が一段階上がるくらいの。
周囲の人間に投げかける明るさや気配りの適切なレベルを肌感覚で心得ていて、つねにそのレベルを保っていられるひとだ。

私の友人はまた違った明るさをもつ。
周りを自分のペースに乗せて会話の先頭をゆく。笑いの発信源はたいてい彼女だ。陽気さと、おどろくほどの正直さと、他人の警戒をいとも簡単に解いてしまう一種の緩(ゆる)さ。

何故このひとと友だちなんだろう、といつも思う。
私は口が重く、ひとりの時間を何より好み、ともすれば何かひとつのことに気を取られて物思いにふけってしまう。
彼女に言わせると私は「ちょっとぼうっとしてる」らしく、そのぼうっとし具合がなんとも心地良いのだそうだ。

三、四か月に一度、彼女は予告なしに私を訪ねてくる。
呼び鈴の音に玄関の扉を開けると、片手をちょこんと上げ、もう片方の手にペストリーや和菓子の包みを下げた彼女が立っている。こちらが仕事中だろうがお構いなしだ。
締切が近くて少し焦っているときでも、「ねえ、これ、一緒に食べない?」と包みを目の前に差し出されると嫌とは言えなくなる。一時間くらい休憩すればいいか、と思い直す。
実際には一時間で終わったことがないのだけれど。

やってくるのはたいてい落ち込むことや悩みごとのある午後だ。陽気な性格のひとでも落ち込むときは落ち込むし、悩むときは悩む。

「そういうときのあなたなのよ」と友人は言う。

彼女はひとしきり言いたいことを言い、私はそれを黙って聞いている。
こうしたらどうかとか、それはやめたほうがいいとか、私はほとんど言わない。
他人にアドバイスをするときは自分の経験の範囲内のことしか言えないし、経験の範囲内であっても、性格や置かれた立場や状況や価値観はひとさまざまだから、安易にこうしろなんて言うのはどんなものかとためらってしまう。
それに、どんなにいい言葉をもらったとしても、結局最後に決めるのは自分·······。
若いころからの習い性で、必ずそういう結論に行き着いてしまう。
だから、あまり口をはさまず聞き役に徹している。
その、押しつけない感じが「ちょうどいい」のだそうだ。

ヨガのあと、友人と先生ともうひとりの生徒と私は昼食を食べにきている。
のんびりした地方都市のはずれにあるマクロビオティックの店だ。
有機野菜を広める活動をしてきた女たちが開いたという、温かみのある、地に足ついた雰囲気の漂うその店では、料理上手な女(ひと)が日常の延長線上で出してくれるようなものが食べられる。
気取りがなく、大仰ではなく、自我のちらつかない料理。
私はこの料理の味や素材やつくった料理人の価値を知ってるんだからね、と食べる側が見栄をはらずにすむ料理。
無理なく体の一部になる健全さと良心と謙虚さにみちた味を私たちは体に取り込む。


先週末、県北の山間部で紅葉が真っ盛りだったと友人が話し始める。
湖畔のレストランでランチを食べて、でもそれは母親のおごりで、母親のおごりならと妹がわざわざパートを休んでドライブについてきて·······と友人はひとしきり週末の報告をする。

このへんの行楽地は時間を選べばわりと空いている場所もあるんだとか、いまどのあたりの紅葉が見頃だとか、女たちの話題はスパイラル状に広がり、盛り上がり、とめどなく続く。


窓の外の木立が赤や黄色に色づき始めている。


彼女たちのさらさら流れる話にうなずきながら、私はときどき南に向いた窓の外に目をやっている。
赤、黄、茶、えんじ、くすんだ緑。
光と陰。
風のそよぎ。
枝を揺らして飛び立った名前を知らない鳥。
その向こうで十一月の空が青く乾いている。

みんな、なぜこれを見ないのだろう。
いま紅葉の話をしているのに。

「・・・さん」
はい?
「ねえ、どんな林檎が好き?」
話題は林檎に移っていたようだ。
うーん、紅玉かな。
昔からあるちょっと酸っぱい林檎。
「だよねえ」と友人が満足そうに相槌を打つ。
彼女はその意見にいまひとつ賛同しかねる先生ともうひとりの生徒のほうに向き直って紅玉の魅力を語り始めるのだが、隣に座った私の視線が窓外にあることに気づいて話を中断する。
こんなとき彼女はいつも、くすくす笑ってこう言うのだ。

ほうらまた、浮世から離れちゃってる。

秋の光のなかで四人が同時に笑う。

友人のひと声で、私は「浮世離れしてるけど憎めないひと」というキャラクターを割り当てられる。
そうして世界とどうにかうまくやっていく。

彼女は現実世界への入口、現実世界と私をつなぐ接点なのだ。




こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。