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いま、自分の中で起きてることがわかった

こちらは、だっらだらと書いたコロナ禍の記録日記です。

どうにもこうにも調子が上がらない。
確かに、楽しみにしていたライブはことごとく中止と延期に見舞われ
友達とも会えていないし、たいした会話もしていない。
そりゃ調子も上がるわけない、とも言いたくなる。

めちゃくちゃ忙しくて3ヶ月仕事以外の話をしなかった時期もあったし
めちゃくちゃお金がなくてライブにことごとく行けなかった時期もある。
お金がなかった時は友達の誘いもすべて断ざるをえなかった。

そしてそもそも私は新型コロナウイルスの影響で在宅勤務になったわけでもない。

自分自身のことを考えると、そこまで急激に環境が激変したわけじゃないのだ。
ただただ「ライブ」だけが自分の意志とは無関係になくなっただけなのだ。

それでも「この鬱っぽさはなんなんだろう」とずっと疑問に思っていた。
だからこういった記事こういった動画から情報をたくさん取得していた。
話されているZoom疲れやオンライン疲れみたいなことは、違和感があった。
でもなんとなく私に「何が起きているのか」だけは掴めた気がする。

たいして花好きでもないのに何でこんなに必要なのか、という事になんとなく答えが出たのでちゃんと文章化しておきたい。

Instagramにこう書いてから1週間になる。
緊急事態宣言が解除されようが、東京アラート発令されようが
さっきも書いたのだが、私にとっては「ライブ」というものが再開しない限り、変わったことが戻るわけではない。
つまり自分にとっては宣言やアラートみたいな強制力はあまり関係がなくて
何よりも感染対策との関係で「公演」のハードルだけが「beforeコロナ」回帰のハードルなんだと思う。
つまりそれはウイルスの特性上、そうそう簡単に超えられるハードルではない。
それは漫画を描いた時に、ある種の絶望と共に受け入れたことだった。

それじゃ私はその「ライブ」で何を得ていたのだろう?
そして今私は「何を失ったんだろう」?

それは単純に「楽しみとしてのライブ」が失われたというだけではないと思われる大きな影響を私は感じている。
まずライブに行く時の一連の行動を思い返してみる。

ライブの発表がある
→抽選や一般発売、友達の協力や譲渡を経てチケット入手
→遠出であれば交通機関やホテルなどを手配
→前日〜当日〜翌日あたりの行動を決める(観光含む)
→SNSやLINEで友達も同じライブに行くことを知る&会う約束
→前日〜当日行動開始
→観光だったり、物販に並んだり、友達とお茶したり…
→開場待ちで偶然友達と遭遇したり
→入場&開演待ち、SNSで情報交換したり、会場内で友達に会ったり
→ライブ
→会場の外で友達と待ち合わせる
→打ち上げ
→家に帰って次の日仕事にちゃんと行けるまでが遠征です
※夜行バスで帰ってきて朝シャワー浴びて座った瞬間、寝落ちて職場からの電話で起きる、という惨事以降、仕事行くまで気力は保つべきと心がけている

チケット観光などの「情報交換」だったり「友達との交流」の機会が多く、
観光だったり移動だったり「普段と違うものに触れる」機会が多いことがわかる。

それって、結局、普段とは違う「外からの刺激」なんじゃないだろうか。
そもそもライブ自体が外からの大きな感覚への刺激であることは間違いない。
耳だけじゃない。
演者の表情や演奏の所作、照明といった視覚。熱気に称されるような触覚。
(あんま感じたくない笑)汗の匂いで嗅覚があったり
ドリンクを飲みながら見るのであれば味覚だってある。
五感をフルに活用し刺激を受けているように思う。

私がライブの後、友達とそのまま飲みに行くのには単にお腹が空いたからという以上に友達とライブの感動を話し合いたいからというのがある。
それって実は「共有」とか「共感」ではなかったりする。
「自分が見ていなかったライブ」が見れるからなのだ。
つまり、同じライブを見ていた「自分以外」=「外」から刺激を受けるってことだとも解釈できる。

私は色んなライブで「サポートギター」を見に行っているのだけど、
一緒に行く友達は「サポート」じゃなくて「メイン」のアーティストを応援し見に行っている方が多い。

そんな友達同士からライブ後、自分が見ていなかったメインのアーティストの(その日の)良さが飛び交うのです。
それはとっても楽しい。知り得なかったことがひとつ思い出として増える感じ。
逆に私が「あそこでギター持ち替えたからあの曲だと思ったんだよ〜」なんて言うと周りの友達が「そんなところ普通見ない!」と驚きがある。
(友達がそれを楽しいと感じているのかどうかは疑問だが…)
見てる人が違うだけでも色んな発見がある。それを交わすのがとても楽しい。

オンラインの配信ライブって「自由なところが見れない」。
みんな同じ映像を見ている。つまり視点が固定される。
「その人固有の視点」で見たライブの感想ってすごく感動があるんだけど
その視点がどうしても固定されてしまう。
そこで感じることはそれぞれなんだけど、それぞれが色んな視点で「発見」するのとは、やっぱりちょっと違うように思う。
私が見たいのは映っていない時のメンバーのプレイで、
知りたくて話し合いたいのは友達がその人の視点で見ているライブの話なんだ。

Zoomの画面だってそうだ。みんなほぼ同じ画面を見てる。
私が知りたくて話し合いたいのは、そのパソコンの画面の外で目に映る景色に何があるんだろう?ってことなのかもしれない。

つまり自分の感じている(見てる)ものの外に、自分の楽しさがある…
そしてその言わば「外からの刺激」が極端になくなってしまっている

視覚的にも見慣れた毎日の知ってる風景
聴覚的にも聴き慣れた大好きな曲だったり生活音
ドラマもアニメも再放送ばかり(それはそれで嬉しいものもあるが新しくはない)
オンラインでは視覚と聴覚ばっかり使っている。

五感フルで使った新しい感動に、私は飢えているんだ。

だから好きでもない花をせっせと買い、飾っていつもとちょっと違う空間を作ろうとしてみたり、色んなお店のテイクアウトを利用してみたりする。

食事はすごい。
食事って五感のすべてを使ってするものだから、人の作った美味しい料理を食べるだけで急激に新しい刺激が満たされる感覚がある。
そりゃ太るわけだ。(自覚したので痩せます、今年中あと4キロ)

今朝、ツイッターでこんな漫画を見た。

実は私も料理をするけれど、自分の料理に対してこういう感情が全くない。
サムネイルの画像も自分の料理。
ツイッターでは美味しそうって評判が良かったけれど、自分にとっては無に近い。
いいんじゃない?と思っても「合否」みたいな感覚だったりする。
実はたぶん漫画やイラストもそういう感覚が強い。
↓一時期、流行ったセーラームーンチャレンジ。
可愛く描けたと思うけど、自分への評価って感動!天才!じゃなくて、優良可の「優」って感じ。

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私はきっと「自分から発したもの」に対して「あまり感動しない」タイプなのだ。
自分の内側にあるものは「だいたいわかった」って思っていて
外側から「思いがけないもの」がきた時に感情が動く=感動するんだと思う。
(自分から発したものに感動しないこと自体にそもそも課題はある)

自分自身を外側から見た信頼できる人から「こういう人でしょ」って本質をつかれると感動するのにも似ている。
自分に見えない違う視点から見たものはやっぱり刺激的なんだよ。

なんとなく鬱々としているのは、鬱なのではなく飢餓なのだ。
五感が、感性が、飢餓を覚えている。

刺激って書いているけれど、別に激しさを求めているわけでもない。
新しさ、外、と書いているけれどそれは「思いがけないこと」という意味だ。

つまり、誰かの日常は、私にとっては新しい刺激なのかもしれないということ。

「情報」だけは日々「思いがけないこと」にあふれている。
新しい発見は見ていて楽しい。
私がCOVID19の情報やニュースを積極的に読んでいる理由もそういうことなのかもしれない。

五感の感動の飢餓。
これが今、私に起きてることなのだ。


(蛇足宣伝)
自分に感動できない私が、自分の絵の「新しい見え方」を作った商品です。


読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。