見出し画像

みんなのフォトギャラリー御礼350回

梅雨終わらんねって言いながらこの画像使うつもりが、長かったくせに終わってからの御礼noteとなった…くらいには考え込んで書いてしまった。

もはや数えきれないといっても過言ではないくらいに7月も相当数のフォトギャラリーからイラストを使用してくれた記事がありました
…なんて書いて
「一体どれだけ使われているんだろう?」と思ったら通知が…タイミングいい。

画像1

noteの最初や最後にイラストへのコメントがあると、電気が走ったような衝撃で本当に感動します…それを読んで元気をもらうためだけに何度も読みにいったりしてます。
シリーズで書いている文章に毎回使っていただいていたりして、なんてすごいことなんだろう…と思っています。
私は自分自身がイラストのこと書いてもらうと嬉しいので、ちょっとずつコメントも残すことにしました。
が「イラスト描いた私登場!」な上からの雰囲気が出てしまうようでマジで悩む…そして書けなくなる…

7月もいろんな素敵なnoteに巡り合えて良かったなぁと思うと同時に
やはり時世柄いろいろ考えさせられるnoteも多かったし、芯の部分を表現されている文章からいろんな視点を教わりました。

その中でも考えさせられたnoteがこちらでした。

ぐだぐだ考えていたことを書き留めておきます。
ちっとも理解できてないことが多いので、無神経になりがちかもしれず、嫌になったらすぐにブラウザを閉じてください…

読んで最初に思い出したのは、八村選手のNBA入団ニュースを見た時の友達の「日本人じゃないじゃん」にブチ切れて、私は「二度とコイツを尊敬できないし、友達と思わない」と思ったことでした。

それと私は自分自身が割と選挙を楽しんでいる方だ、という自覚があるので
そもそも私には「投票に行かない」という選択肢がなく、行かない理由もほんとうの意味では理解できません。
そういう価値観もあるんだなっていう感覚。
無知がたたって「行かなくてもいいや」みたいな人には「投票は生活」ということを公民の教科書レベルで話すことはあります。

だってさ、先の都知事選だって「これから新型コロナ感染症の対策で自分の自由を奪いかねない相手」を選ばなきゃならなかったわけで…
めっちゃくちゃ自分に影響がある!と思ってた。
私は、自分に関係ないなら一切興味がわかないタイプなのですが、
いざ何かしらの影響があると思えば可能な限り自分の意見をツッコんでやりたいタイプでもあります。
なので「家から出るな」とか…ましてや「(私の人生で最重要な)ライブに行くな」なんてことを私に勧告できる相手を自分で投票しないという選択肢がなかった…

そんなわけで自分にとってそういう視点で「選挙」や「投票」を見ていたのですが、全く違う視点のお話だった。
このnoteの「理由」には根の深い「諦念」があって、それを作っているのも誰か一人ではない「歴史」と「協調性のバケモノ」みたいなものを感じました。

初めて「投票行かなくても仕方ない問題なのかもしれない」と思ったのです。

国籍、民族、血統…
そういう視点で自分の今までを改めて思い出すと、私は割といろんな環境にいたんだなぁと思います。
小学校から当時としては珍しく英語教育があって、5年生の時にアメリカンスクールとの交歓ホームステイをやっていたり(その時、文化の違いに驚いたのはまだ鮮明な衝撃として残っている)
大学はむしろ「ザ!日出づる国、にほん!」みたいなところに行ってたし、研究内容も含めて日本皇族文化みたいなところにどっぷりだった。
前々職の一番仲良かった同期は国籍違ったし、前職もいろんな国の人がいる会社だった。

私はそんなふうにいろんな環境にいて、民族だー国籍だーってので見ることがあまり自分の意識にないんじゃないかなぁと思う。
文化が違うなって思うことはあっても、それがその人の良し悪しじゃない。
「セロリ」の歌詞くらいのテンションだ。

日本は「単一民族でみんなおんなじだ」と信じてやまない人がいる中で
そろそろその昭和初期みたいな考えをやめませんか?と思うのは、経験というよりどちらかというと私の歴史観だったりする。

日本の文化って「受け入れる」ことから始まるものが多い。と思ってるから。

仏教も百済との外交から伝わってきて、華やかな仏教美術の数々がうまれたし
信長だってスペインとかとの貿易で武器を作ったり、いろんな文化を楽しんでたらしいし
明治のころも西洋文化がドッと入ってくることで文明開化となったし
産業革命も外から入ってくることで経済的に発展したんだったんじゃないのだろうか。

「同じであること」を求めすぎている今のこの感じは私も生まれてからずっと窮屈だったし、「変わってる」ことは悪口だった。
でも「同じ」を求めて起きたことで、いいことや発展があったんだろうか…と俯瞰的に考えちゃったりする。

同じであることを、単一であることを、安心と思う人がいて、その人たちは異質なものを嫌うことがたくさんある。
それは国籍や肌の色という自分でどうしようもなかったものだけでなく、
私のように「単純に人と同じことができない」だけでも嫌われる。
わからないことが怖い人はたくさんいて、怖いのを人のせいにするのをたくさん被ってきたなって思う。
(世の中のことなんて本当に「わかる」ことなんてないのに。)

でも人と異なることを良しとしようという動きも出てきている。

シン・ニホンはそういう「受け入れる」ためにできることを書いているようにも思う。
もっと「受け入れる」ような世の中になってほしいなって考えちゃう。
別に嫌なもの怖いものを許さなくていいのだよ。遠ざけて存在があることを知って関わらないってのが「受け入れる」の一つの方法だったりする。
「なにかを良くしよう」なんてしなくていいし、そんなのはエゴで自分にとって良いものが、誰にとっても良いものかなんてわかんない。

同じことを求めることから、いろんなものを受け入れる
求められるような「同じ」じゃなくても、輪の中におなじく入れるほうがいい。
和を以て貴しとなす。
それを考えられる人が増えたら、こんな気持ちにならなくていいのになぁって思いました。

でも私はこのnoteを読んで最後が希望だったことにひどく安心したんです。
選挙に関して言えば前の都知事選でもこの方のこのnoteの内容を考えたら
「誰に投票するか」は決まらなくても
「誰に絶対投票してはならないか」はあったはずだから。
(傷ついたままだとあんなん見るのも嫌な気分になっちゃいそうだけども…)

おそらく色んな形で影響のあるお話なのにも関わらず「選挙」というものを選んで書いたっていうのが不思議で。
だからこそこの方にとっては「選挙」がキッカケで見えてくるものがあるんじゃないかなぁと思いました。
そうなら良いなと、願うような気持ちで書き留めてみたところです。
それが、選挙を楽しんでる人からのあくまでひとつの、意見でした。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。