「私」と「ジェンダー」


私は明かるい人間だと思うし、友達と下ネタで盛り上がるのも好き。
けれども私にはどうしても克服できないコンプレックスがある。


性について直接的な言葉がなんというか、ものすごく、苦手。


相手から聞く分には大丈夫なんだけれど、自分で書いたり口にしたり、とにかく直接的な言葉を発することがものすごくしんどい。性的なものだけじゃなくてなんというかデリケートな部分も然り。



まぁ、この話、今から書くことに全く関係ないのだけれど。


内側から見るジェンダー



ちょうど一年前くらい、大学二年の一学期にある授業で
「内側から見るジェンダー」というレポートを書いた。

おおまかな内容は、自分のジェンダーを知ることで「ジェンダー」を他人事としてではなくて、自分事として考えよう的な。


ジェンダーという言葉に対する興味は中学生の時からあった。なんというか、「惹かれた」。この世にまた、新しく便利でそれでいて複雑でめんどくさい言葉が生まれたと思った。

本当にそう思った。この言葉に救われる人はもちろんたくさんいるだろうし、言葉やカテゴリーは人を安心させることができるのもまた事実である。


でも私の思った通り、「ジェンダー」は様々な対立や理解を経て、日々その意味や意義が更新されている。


ジェンダーについてまずはじめの理解として、この本を読んだ。

これ、めっちゃわかりやすい。


「ジェンダー」って聞いて何を思い浮かべる?


LGBTQ+とか、性的マイノリティとか、同性婚とか、、、、

でも「ジェンダー」ってそもそもの意味はこれ。


ジェンダー 【 gender 】 
①生物学的な性別を示すセックスに対して、社会的・文化的に形成される性別(広辞苑)


ジェンダーと比較される言葉としてよく「セックス(sex)」という言葉が使われるけど、私が考えるに、

セックス➡物体的、動物的な性
ジェンダー➡内面的、精神的な性

ではないだろうか。


一番知っててほしいのはジェンダーって、もうそれは数えきれないくらいの種類がある。


「13歳から知っておきたいLGBT+」によると、今名称化されているのは80くらいらしいんだけど、多くない?


実はジェンダーっていうのは自分の自己認識について個人的で、多義的なその人の状態を表すことで、「ジェンダー・アイデンティティ」ってのもあるんだけど、これはそのジェンダーの認識をうまく伝える言葉やラベルのこと。

このふたつは人によって全く同一であることもあれば一致しない人もいるんだって。


これ、しっくりこない人もいるかもしれないけど、私これを聞いたときなんだか悟りの境地みたいな気分になった。


例えば、私はセックスは女でしょ。で、ジェンダーはヘテロセクシャル(恋愛対象が異性であること)。でもジェンダー・アイデンティティはといわれると、なんだか難しい。


だって女の子にときめくこともあるし、男っぽい女の子にドキドキすることもある。自分がスカートをはきたいときもあるし、思いっきり男の子みたいな恰好したくてこんな邪魔な胸がなくなればいい、なんて思う時もある。


このジェンダーとか、ジェンダー・アイデンティティを知るには「ジェンダー・スペクトラム」という方法がある。


自分の望む性はどれなのか、恋愛対象はどんなひとなのか、とか。


自己分析の一環だと思うんだけど、ジェンダーを自分のこととして捉えるはじめの一歩だと思う。


自己尊厳としてのジェンダー


私、20年間「女」として生きてきた。

でもなんだか、どこかに違和感というものをもって生きてきた。私は「女」であって「女」ではない、例えるなら罪悪感と高揚感の狭間で生きてきた。


これ、日本にいるからだって思ったのは去年の夏のこと。


私はセブ島のアパレルショップでインターンをしたんだけど、この職場、女の人よりゲイの人が多かった。(セブは女性、男性、ゲイが同数ずついるらしい)


女の人も、男の人も、ゲイの人も、みんなキラキラしてみえた。


思いきり短いスカートはいて、今にもはだけそうなキャミソールを着て、いつも自分を愛している、そんなような。

そしてそれがなんだか羨ましくて疎ましくて、なんでこんなに違うんだろうって。


この人たちは自分でジェンダーラベルを選択することができるから、そのことに自信を持ってるんだ。自分のジェンダーに誇りをもって生きてるんだな。


こんなことを思ったのはセブから帰る3日前だったんだけど、とたんに私の中の違和感に形ができた。


私は自分で女になりたくてなったんじゃない。


そう思って生きてきたから違和感を感じてた。

日本ってほんとに曖昧を、好む。


思いっきり女の子の恰好したら下品なんて言われて、だからといって男性みたいに髪を短くしたら批判されるし、そのくせ男女平等なんて唱えて。

振り切ることを許してはくれない国。


女「が」いい。

自分で選ぶジェンダーがあるからこそ私たちは帰属感のもとに安心感と自信を得られる。


その一歩が、やっぱり知識なんだろうな、と。



母はフェミニスト


フェミニズムについて論じるのは難しいのだろう。

ジェンダーについて勉強している私はこのテーマにいつも気づかないふりをしていた。


私の母は過激なフェミニストだと、子供ながらに知っていた。


私の体が少しずつ大人になってきたころ、母は毎日のように私に言いきたせた。


男は昔から女性を虐げてきた。 女はいつも男より弱い立場にある。
男は女のことを性のはけ口にしか思っていない。


そんな中で生きて生きたからこそ性に対して敏感になってしまったのかなとも今になれば考えることができる。



「女」を武器に意図して優位に立ったこともある。男性に対して「女」を使えば得することなんて本当にたくさんあるじゃないか。言うとおりに動いてくれるし、プレゼントだったもらえる。

そんなふうにわざと振舞った。私は母が言ってることが嘘だと思いたかった。母に直接反抗できない私の精一杯の反抗だった。



母の言動に一番振り回されていたのは自分だった。


「フェミニズム」は男性に対して女性が優位に立つことではない。


フェミニズムの定義に関して言うと、広辞苑のものが興味深い。

2008年に発行された広辞苑(第六版)では

女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性支配的な文明と社会を批判し組み替えようとする思想・運動。女性解放思想。女権拡張論

であった表記が10年後の2018年に発行された広辞苑(第七版)で、

女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、性差別からの解放と両性の平等とを目指す思想・運動。女性解放思想。女権拡張論


と、変わっている。


いいたいのは、フェミニズムは性差別の是正を指すのであって、女尊男卑ではないと。(現状が男性優位であるから女性が向上しようとしている)



女性専用車両とか男女雇用機会均等法があるから、女性は優位じゃないか!

とかいう人の考えも否定できないし、

女性が家事する、育児するなんて固定概念間違ってる!

とかいう人の考えのそのどれも、間違ってない。



私のジェンダー論


そして私が思うのは、


自分の武器は使って生きていこう


ってこと。

こんな適当な考え批判されてもなんも言い返せないのは事実。



私は女性として、男性に生まれたかった、羨ましいと思うこともあるし、逆に男性じゃなかったらこんな楽しみないだろうなと優越感に浸ることもある。

体の構造やホルモンの関係で性別ごとに得意なことも不得意なこともある。人によってもそれはある。ジェンダーによってもこれは起こりうる。




必要なのは知識と理解であって、法でも戦闘でもない。






と無知な私はここに、一石を投じるのである。




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