「重い」と「軽い」
仕事がうまくいかないストレスなのか、
爆食の日々が続いて、体は重くなっていく。
歩いているとき、座っているとき、思う。
ああ、重いなあ。
仕事がうまくいかないストレスなのか、
自分の命なんて軽いもんだと考える。
朝起きた時、出張中の車内で思う。
ああ、軽いなあ。
最近は自分の希死念慮が段々ひどくなっていくのを感じる。
生きることの重要性を、死ぬことの愚かさを、
分かりたいのに、わからない。
「生きたい」と希望を持って言えるようになりたいのに、
「死にたい」なんて思いたくないのに、
そう思ってしまう自分に嫌気がさす。
大切な友達や、大好きな恋人や、
やりがいを感じている仕事でさえも
死ぬことができない障害物になる。
「希死念慮」が病気なのか、特性なのか、
私には調べる勇気もまだないけど
「死にたい」と「生きたいと思いたい」が葛藤し続けている間は
つらい日々が続くのだろう。
いつか、コロッと私が死んでしまったときに、
自分の命の質量を知れるんだろうか。
死んだ後に知るのはもう手遅れなのだろうか。
そもそも死んだあとは意識などないから
知る、なんてできないのだろうか。
今、私はお昼のサスペンスドラマの最後のシーンのように
崖っぷちに追いやられている。
「葛藤」という刑事に追い詰められてとうとう崖の縁まで来てしまった。
ドラマの犯人役は、あの崖っぷちでよく素直に捕まって
飛び降りるのをやめなかったなと思う。
反省をして、刑務所に入って、自分の刑と向き合って。
私は自分の希死念慮と向き合って生きていけるだろうか。
向き合って生きていかなければ、という気持ちと
早く楽になりたい、という気持ちが
私の頭の中で、ほんの僅か、
令和ロマンとヤーレンズのM-1決勝戦くらいせめぎあっていて
まだ最後の票が開かれていない。
私が死にたいという気持ちが芽生え始めたのは、
いつだっただろうか。
思い出せば、
幼稚園のお遊戯会の役決めの時も、
小学校でサッカーをして遊んだお昼休みのあの時も、
中学校の運動会で整列して入場していた時も、
高校で友達と移動教室をしていたあの時も、
うっすらと、でも確実に私は死を隣に感じていた気がする。
家庭環境とか、そういうこと以前に
物心ついたあの時から。
私は「命」が軽いことに気づいていた。
気づいてはいけないことにも、気づいていた。
「重い命」「何よりも重いもの」「ずっしりと感じる生命」
言い聞かせられてるのかと思うほどに
耳にするこの言葉たちに
納得できたことはない。
ただ無邪気にその言葉を信じる級友たちが羨ましかった。
私はこの先、「生きたい」と感じて生きる、
そんな些細な事が叶わない人生を歩んでいくのだろうか。
それならばいっそ、その「軽さ」に
身を任せるのも手ではないか。
ああ、やっぱり軽いんだな。
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