バスの待合所

バスの待合所には色々な人がいる。学校へ行く人、家へ帰る人、仕事に行く人。当時の私は、学校へ行く人だった。毎朝、決まった時間のバスに乗り学校へ向かう。毎朝通うと見たことある顔が何人もいる。ある日、初めて見るおじさんがいた。おじさんと言っても30代後半から40代前半の中々の男前だった。その時はなにも気にせず、いつも通り私は学校へ向かい、授業を終え、再び、待合所に帰ってくる。そのおじさんはまだそこにいた。ベンチに座り遠くを見つめている。バスの待合所でバスを待たずして何時間も何をしていたのだろう。とシンプルな疑問が浮かぶ。が、何をしていたんですかと聞くわけにもいかないので、私はそのまま家に帰ることにする。家に帰ってもそのおじさんの事が気になり、落ち着かず家の中を無駄にうろちょろするも、あのおじさんが何者なのか、なにをしていたのか解決するわけでもない事に気付く。馬鹿である。そんなに気になるならもう一度、あの待合所に行き、真意を聞き出せばいいという事に気付くが、そこまでする筋合いもないので一旦忘れる事にし、その日を過ごした。

次の日、いつものようにあの待合所へ向かう。そこにおじさんの姿は無かった。畜生。後悔するなら話かければ良かった。バスに乗り学校へと向かいそのバスは出発する。何を期待しているのか私は窓の外を見つめる。思わず声が出る。「あっ!」おじさんが待合所に向かって歩いている姿が目に映る。周囲の視線が集まり、私の顔は赤くなり、逃げ出したくなるが、そんな恥ずかしさを押しのけるぐらい、私は嬉しくなった。おじさんがいた。今すぐに降りて真意を聞き出したい気分だったが、今はおとなしく学校へ行くしかない。学校へ着いてもソワソワし、頭の中はおじさんの事で頭がいっぱいで授業は一ミリも頭に入ってこなかった。頭の中がおじさんでいっぱい。文字だけで見ると少々気持ち悪い気もするが、そんな事とは裏腹に、私の頭の中には夢や希望が詰まっていた。ようやく下校の時間になり、一目散に家路へ急ぐ。帰りのバスに揺られながら、おじさんがまだあそこにいる事を信じ、私は窓の外をひたすら見つめる。

バスはあの待合所に着いた。急ぎ足で降り、辺りを見回す。おじさんの姿がそこにはあった。ベンチに座りまた遠くを見つめている。しかし、気持ちとは裏腹に話しかけれず、立ちすくむ私がそこにいた。おじさんを見つめる私と遠くを見つめるおじさん。なんとも奇妙な構図である。一体ここで何を待っているのか。私はまた話かけれず、気付くと家にいた。何を待っていようとおじさんの勝手だし、おじさんにはおじさんの考えや人生がある。むやみやたらに人様の行動に口を出すもんじゃない。そう言い聞かせ自分自身を説得した。学生身分である私にはただただ勇気が無かった。だけの話である。

次の日も私はいつものように待合所へ向かう。おじさんの姿は無い。次の日もその次の日もそのまた次の日も。

時は経ち、私は社会人になった。仕事に明け暮れる日々が続き、おじさんの事などとうに忘れ、バスを使う事も少なくなった。ある休みの日、私用でバスに乗る機会があった。私は久しぶりにあの待合所に向かうことになる。待合所に着き、私は目を疑った。おじさんがそこにはいた。姿、形変わらず。人違いかとも思ったが、完全にあのおじさんであることは間違いなかった。私は自然におじさんの横に座る。お目当てのバスが来るも、私はあえて見過ごす。おじさんも相変わらずバスに乗る気配はない。沈黙した空気が流れる。そんな空気を壊すように私は切り出す。「ボーっとしててバス、逃しちゃいました」大人になった私は少しは成長しているようだ。一瞬、間が空きおじさんの口が開く。「バスはね、色んな人の思いを乗せて走るんだ。老若男女、大勢の人の気持ちを乗せて目的地へと向かって走り出す、乗客の魂を運転手は預かっている。運転手でそのバスはいかようにも変わる」なんだか難しい事を言われた気がした。私は適当な相槌を打ち、質問をする。

「おじさん、もしかして元々、バスの運転手だったんですか?」不躾な質問だったと後悔するが、おじさんは「そうだよ」と答えてくれた。そこからおじさんとの会話は何分か続いた。どうやらおじさんは昔からバスが好きでバスの運転手を目指し、無事、免許も取り毎日、人々の思いを乗せ走っていたらしい。が、ある日おじさんが運転していたバスが前方から来た車と衝突してしまい不慮の事故にあってしまった。不幸中の幸いか、乗客に死者はいなく怪我だけで済んだようだ。それから運転することは勿論、バスに乗ることすらできなくなってしまったと語る。おじさんの気持ちはわかる。分かりすぎる。好きなことを続け毎日が幸せだったはずだ。時には、辛いこともあっただろう。でも、運転することで、気持ちを乗せて、走ることでおじさんは生きていたんだ。おじさんは悪くない。精一杯、乗客を笑顔にするため走ったに違いない。それだけで十分だ。悔しい、悔しい、悔しい。聞いている私も悔しくなる。その悔しさから、バスを毎日眺め、悔やんでも悔やみきれない日々を送っていたのだろう。おじさんはふいに立ち上がり、「話を聞いてくれてありがとう」と言い、見えないバスに乗り込み雲のように消えていった。

何故、今になって現れたか分からないが、正確には何故今になって見えたのか分からないが、おじさんの中でなにか踏ん切りがついたのだろう。見ず知らずの私なんかが背負えるものではないが、一度乗りかかったバスだ。全部が全部思いを受け止める義務は無いが、責任はあるはずだ。バスが来た。私はおじさんの分まで気持ちを乗せ、乗車する。バスは発車し目的地へと動き出す。

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