図1

誰かに、何かに対して苛立ちを覚えたときに、少しでも心を穏やかにする思考法

#仕事
事象1:同僚に、こんなひと(たち)がいる。

・まともな日本語を組み立てることができない。
・自分の理解力が極端に低いことに気付かない。
・学ぶための努力ができない。
・一定、それなりに自分は”できる”と思っている。
・気分が態度にあらわれる。
・自分の無籍にな発言や行動が周囲にどのような影響を与えるか想像ができない。

事象2:わたしは、そんな同僚に対してこんなことをする(してきた)。

・文章の添削。
・よくわからない発言の補完。
・学びを得られるサイトや本の紹介。
・わたしの思考プロセスの言語化とその公開。
・態度で怒らない、常に平静に。
・基本的には「ありがとう」。
・漏れたタスクをだまって回収。

事象3:こんなことが、起きている。

事象1の同僚が、わたしに対する愚痴を周囲にばらまくことにより、その愚痴を聞かなければならない無関係の方々が、対応に困り仕事をやめたくなる。

一連の起こっていることを理解したときは、久しぶりにキレそうになるというか、感情が抑えられないと言うか、文句があるなら我に直接言いに来い、というか、

ひとことでいうと、「いいかげんにしろ」なわけです。

個人的に攻撃されることはなんとも思わないし、不足があることは理解しているから、それは正面きって言えばいい。っていうか、正々堂々と言いに来い。
その言葉を、関係ない人に受け止めさせ、「悪口聞くの疲れた。周囲の関係性が悪いことに疲れた。」こんなことを言わせてしまうなんて。散々お世話になってきた方に、そんなことを言わせてしまうなんて。

そして事象1の同僚に苛立ちを覚えると同時に、
自分に対する不甲斐なさがふつふつ湧くわけです。

「わたしが周囲から文句を言われるような指導をしてこなければ」
「もっと同僚とうまくやっていれば」
「文句があるなら直接言わせるように仕向けられていれば」
「同僚の悪口を関係のない人に聞かせたときに及ぶ影響を伝えられていれば」

こんなことで、一緒に仕事をしてきた大切な仲間を失わないといけないなんて、やりきれない思いしか無い。恨みしか無い。


一方で、わたしが神と崇めるCD(クリエイティブ・ディレクター)がいるのだが、その神CD曰く、「そんな狭い世界で苛つくなんてくだらないからやめなさい」とのこと。神CDが言いたいことは、こうゆうこと。

・世界は広い。会社という小さな組織の中で、あいつは仕事ができない、あいつのせいでうまくいかない、わたしはあいつよりも努力しているのに、なんて比較しても仕方がない。

・同世代に #落合陽一  先生がいるが、はたして君は、落合先生より日々努力をしているのか。比較の基準を落合先生にした途端に、いま君が比較して苛立ちを覚えているその世界は、とつぜんくだらないものになるのではないか。

・人は誰かと自分を比較し、優位に立ちたがる生き物である。狭い世界で比較をし、優位に立つことが何になるのであろうか。もっと世界に目を向けてみよう。自分なんてまだまだで、何かの優位にたつなんてことが、いかにくだらなく、そこから何もうまれないことかがわかる。

こんな話を聞いてから、自分が優位に立ちたくなるときや、誰かに優位に立たれたような気分になったときに、世界を広く捉え、受け止めようと努力するようになってきた、気がする。

仏陀の思想ってこういうことに近いはずで、
その神CDは仏陀の思想を持っていて(持とうとしていて)。

だからわたしも、少しでもその視点をもって日々過ごせるように、思考する前に、発言する前に、深呼吸を。