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自分の料理に「ズボラ・手抜き」と言うのをやめてみる

昨日、こんなツイートをしました。

たくさんの人が共感して、賛同してくださり、同じようなことを思っている人がいてくれて嬉しいなと思いました。

なぜ私がこのツイートをしたのか、この2つの表現を使わないことの何が大事だと思っているのかを書いてみますね。

日々の食事を用意するのは、体力、時間、お金、私あるいは家族の好み、栄養、あらゆることを鑑みる必要があります。いずれにせよ食べないと生きていけないので買ってくるのか、作るのか、何かしらで用意しないといけないのです。今の社会で忙しく働く人たちが、これらのことを日々余裕を持って考えるのはなかなか難しいことだと思います。

そんな疲れ果てて献立を考えられない時に、味付けの部分を考えなくて良いレトルト調味料や味付け済みの肉・魚類、冷凍食品やお惣菜などに頼るのは手抜きじゃありません。何かしらでも用意しないとと思って、食べられるものを食卓に出した時点で「頑張った!」と自分にはなまるをあげてほしいのです。

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私も忙しい日は、一から野菜や肉を切って、炒めて、味付けは何にしよう…とキッチンに立って考えるだけで、プツンと何かが切れてしまいそうな日があります。そんな日に作るのは、私が普段SNSで投稿しているような、旬の野菜を焼いただけ・茹でただけ、きゅうりに味噌をつけただけ、注ぐだけの即席味噌汁など、素材のおいしさをそのまま味わう料理です。

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それらの料理は子供の笑顔が正義のかわいさのように、素材そのものも屈託ない正義のおいしさがあると私は思っています。素材のまんまを料理することを「ズボラ・手抜き」とは言いません。簡単に料理できて、おいしければそれ以上のことがあるでしょうか?

本屋の料理本コーナーには「ズボラ・手抜き」のレシピ本が大量にあります。きっと本の著者が言いたいことは「最小限の手数でおいしいものを作る」ということなんだと思います。それがちょっと面白おかしく「ズボラ・手抜き」と表現されているのだと思います。

作った本人が、自分を傷付けず正々堂々と「ズボラ・手抜き」と言えるなら私は何も思いません。でも今まで料理をいろんな人に教えてきて「こんなに頑張っているのに、なぜ手抜きと言うの?」と思う場面が数々ありました。

自分なりに精一杯やったけれど、今日の体力・気力ではこれしか作れなかったとき。ズボラで、手抜きでごめんね、と言う。それは少しずつ自分を傷付けていることになるのではないでしょうか。何も謝ることはないです。

私の母は仕事が忙しく、だからこそ私が料理する出番ができ、今の仕事に繋がっています。仕事が忙しくてお惣菜だった日、クックドゥのチンジャオロースだった日、そのジャンクなおいしさに飛びついたのを覚えています。子供は案外気にしていません。むしろ、今日は特別な日でうれしいくらいです(私はそうでした)。
栄養面や安全面が気になる方も多いと思いますし、私が実際親になったら悩むこともたくさんあると思いますが、何かしら食べていれば子供は勝手に大きくなります。

私は料理が好きで、料理を教える仕事をしています。だから、テキトーだとしても自分で作って食べることが多いです。そのズボラ飯は、一般の人にとってのちゃんとしたご飯かもしれません。料理家が自分の料理を無意識のうちに蔑むことで、誰かの料理のハードルをあげているかもしれない。そう思ったので、ここに「自分の料理をズボラ・手抜きと表現しない宣言」をしてみます。

私にいつか家族ができたり、子供ができたりしたら「簡単だけど最高においしいよね!」と言いながら食卓を囲みたいです。簡単でおいしいがスタンダード。忙しい日は自分一人で頑張りすぎないのもスタンダード。そういう世の中が生きやすそうだし、ご機嫌でいられそうです。よかったら皆さんも、ご一緒に。

バナー画像:土田凌

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