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「冬の森」第5話

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第5話 二重橋にじゅうばしのカフェ
 東京駅で降り、丸の内側から少し歩いて二重橋にじゅうばしに近いカフェに入ると、
ほどなくお昼休憩中の奈歩なほが急な呼び出しにも関わらず軽い足取りでやって来た。
産休明けの彼女はすっかり編集者の顔に戻りながらも柔らかい笑顔をたずさえている。お互いの一通りの近況報告を終えると彼女は一呼吸して決心したかの様に口を開いた。
 「近々退職しようかって考えてるの。子どもの成長の一瞬一瞬をもっと共有したいの。仕事もしたいけど、戻る時に努力を惜しまなければなんとかなるかなって。」
  と、奈歩なほらしい様な、でも思ってもみなかったことさらりと言った。
 「大谷おおたにさんは相変わらず海外多いでしょ?里奈りなこそもっと仕事したら?
丁寧で評判いいし、その気と時間があれば他からの依頼も紹介できるよ。
ちょっと考えてみて。」
奈歩なほの目が大きく見開いて眉毛が少し上がる表情にドキっとした。わたしはどう答えるか考えるより先に安堵感あんどかんからなのか思わず「えへへ」と笑った。
彼女も同じ様に笑いながら小さく何度もうなずいた。

 奈歩なほが席を立って会社に戻って行くと同時に同じ様に首からIDカードを下げた人達が立ち上がり、カフェ内の空気がサッと変わった。
ふと異空間に押し出された様な、またあの感じ。
ざわめきの音が遠のいて、瞬時に目の前の場面が切り変わる。
ほんの少し青みを帯びて薄くぼやけた、どこかで見たことのある都会のビル群を狭い視界の中で見ていた。
日本ではない?急いで記憶の中にある画像を探す。
なぜか帽子をかぶっている様な気がして頭に手をやった途端、ざわめきが戻って元のチェアに座っていた。
さっきまで自身が座っていたテーブルもコーヒーのカップもそのままだから時間はずれていないみたい。
最初は驚いてとても慌てたけれど近頃は自身に起こっているこの何か、を
楽しむことにしている。
考えてみても答えが出ないことってある。

 辺りが急激に暗くなり街灯が付き始めるとザアーと音を立てて大粒の雨が降って来た。カフェの大きな窓は水滴がいくつもの固まりになって光を滲ませて流れ出す。通りを挟んだ向こう側のビルのいくつもの四角い窓は街灯が反射してひとつひとつが手前に浮かんでいる様に見えた。
色も輪郭りんかくもすべてがゆがんでかどを無くしていた。

「ただ雨が降ってきただけなのに魔法みたい。」

#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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