だから何?って本当にそうなのかも。優しさってよくわからん。
ちょっとしたカミングアウトをしたときに、「だから何?」って言われた話。
Bさんとの電話の中で、急に母とのいざこざについて話したいと思って、一気に話した。子どもの頃からの関係性、最近まで言いたいことは何も言えなかったこと、アドラーの本を読んで数年前に母と対峙して思ったことを伝えたこと、いまだに母が苦手なことを。そしてついでに、今は比較的落ち着いているが、以前の私はかなり情緒不安定で急に泣き出しては泣き止まないことが多々あったことなど。
自分てほんとに馬鹿だなぁと思うのだけど、この話をした理由を聞かれた時に「予防線。急に情緒不安定になったときにびっくりさせないように」と答えた。そして「私はズルいから、先に伝えておいて、実際に起こっても言い訳できるように」とも説明した。全部種明かししたら意味ないのではという。
そしたらBさんに、「ぶっちゃけ、だから何?って感じ」と言われた。
薄情と思う人が多いような気がするけど、私も同じ立場だったらそう思ってしまうかもと思った。
「別にそれはそれでいいんじゃない。その状況を変えたいとか変わりたいとかあるならサポートするけど、そうじゃなければべつに気にしなくていい。誰にだって多かれ少なかれ何かあるから、それもひっくるめてその人だと思う」
ド正論。ぐうの音も出ねえってこういうことなのか。
ショックというかビックリしなかったと言えば噓になるけど、傷ついたりはなかった。なるほど、私がBさんに感じた優しさや誠実さってもしかしたらここに由来するのかもと思った。どこがやねんとつっ込まれそうだけど、本人も言っていた「俺が支えるよ的なことは言えないし言わない、そして頼まれなければ助けもしない」という点において、そう思ってしまう。
元夫はいつも私の味方だった。泣いて半狂乱になる私のことを根気よく慰め、一緒に居てくれた人だった。頼まなくても私を優先して助けてくれた。それってまさに優しさだと分かるし、当時も分かってた。でもそれは本当に私のためだったのかと思うとよく分からない。周りからしてみたら、そこまでしてもらって大事にされて何を言ってるんだ、なのかもしれないけど、実際に私は元夫に依存していた。自分が依存している自覚があったけど、抜け出せない、他に方法が分からないことが嫌だった。今なら、他の友達を頼って良かったって分かるけど、あの時は分からなかった。
Bさんの表現する一見突き放したような言葉を受けてみて、ちょっと冷たいんじゃないのって思いつつも、話してみて、相手の反応を知ることができて良かったと思った。Bさんが好きだからってのはあるとしても、私にはその答えは新鮮で、ありがたいって思えるものだったから。
最近だんだんと優しさというものがよく分からなくなってきた。前もちょっと書いたような気がするけど、私は人からの好意や思いやりをうまく受け取れない、ある種の病気なのだと思う。好意にも思いやりを正しく受け取らない無礼で最低なやつ。だから人が離れていく。それは今も変わらない。
優しすぎる人とはもう一緒にいられない、そう思った。それは元夫にしてもらったことへ何も返せなかったこと、それだけではなくてそれを利用して依存してしまったことがあるから。それでも味方でいてくれた人を裏切ったことも、今もまだだいぶ後悔してて、きっとずっと後悔するんだと思う。それでいい。私がしたことの結果だから、後悔と一緒に生きて行けばいい。ちなみにこのくだりを書いてて久々に涙がブワーである。
話があちゃこちゃ行ってしまったが、Bさんに言われた「だから何?」は私に程よい刺激を与えてくれて、久々にこういう考察をするきっかけとなった。果たしてこれは惚気なのか、よくわからんし、どうでもいいわって思う。まさに「惚気?だから何?」として処理しよう。
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日本が休みで、大変失礼ながら仕事がものすごくはかどっている。残務処理をじゃかじゃかこなし、定時にスタッフと退社。今日は珍しく朝から腹痛に襲われ体調的にはきつかったけど、余計なストレス(日本からのなぜこのタイミングで?的な謎の問合せ)が減るだけで平和に感じるのであった。しかし引き続き特定の現地人の対応にキレる構図は変わらない。よく分からないことを言われて「は?何の話?意味わかりません」と一体何回答えたら理解してもらえるのか。
仕事では「だから何?」を体現できているのに、ふだんの生活ではできないのである。難しい。