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ハンナ・ハモンドが臨終における告解で述べた奇妙な話 #2:ヴァルプルギスの夜

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それから、悪魔は4月30日の夕方、日が沈む頃に、ソフィアの墓でまた会おうと言って消えてしまいました。
ええ、消えたのです。闇に滲むように。

悪魔が消えてしまうと、私はすべて幻覚だったのではないかと思いました。
馬鹿げた夢だと。
しかし、私はその馬鹿げた夢に死にものぐるいですがりました。

4月30日までの数ヶ月間、約束の日を今か今かと待ちかねて過ごしました。
希望を得て再び活力ある様子を見せるようになった私を、周りは娘の死から立ち直ったものと思ったようです。
そしてあっという間に時は過ぎました。

4月30日、日が落ちる少し前に墓場に行きました。
その日は曇りで、雲がひどく低く垂れ込め、重苦しさを感じたのを覚えています。
時折ぱらぱらと優しい雨が降り、墓場の青い芝を濡らしていました。
私は、ソフィアの白く小さな墓石の前に佇み、初めて自分が罪深いことをしようとしている気がしました。

「やあやあ、今日は実にいい日だ」
不意に後ろから声が聞こえました。
振り向くとあの悪魔がいます。
あの日と同じ黒い服に、黒い傘をさしています。
「今日はヴァルプルギスの夜。悪魔と魔女の饗宴には実に相応しい」
悪魔は傘をくるくると回しながら、芝居がかった口調でいいました。

「魔女?魔女がどこにいるの?」
と私は聞きました。
「君のことに決まっているだろう、ハンナ。悪魔の力の一端を、まさに今借りんとする女。魔女と言わずしてなんとする?」
悪魔はおどけた口調で答えました。
私は黙っていました。その通りだと思ったからです。

「君の願い、娘を蘇らせ、もう二度と奪われないようにすること、これで間違いないね?じゃあ次はぼくの要求する対価を聞いてもらおう」
そう言われ、ついにこの時が来たと思いました。
悪魔との取引です。
どんなに恐ろしい対価を要求されるのかと身構えました。

「対価は、君が生きている限りソフィアを愛し続けることさ」
私は拍子抜けしました。
生きる限り娘を愛し続けることなど、私には当然のことです。
思わず「そんな簡単なことでいいの?」
と聞き返しました。

「人の持つものの中で最も貴重なものは何だと思う?」
問いに答えず悪魔は逆に聞いてきました。
家族や友人か?それとも愛情か?私にはそんな陳腐なものしか思い浮かべられません。
「それは時間だよ」
悪魔は言いました。

「人間の魂は時間を消費して創造する。
破壊を本分とする我々は人間の時間を奪うことに価値を見いだす。
だから、君が生涯の限られた時間をソフィアへの愛に費やすことで対価としよう」

私には悪魔が何のつもりで、何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。
そしてソフィアを愛さなくなることなど無いと思いつつも、聞かずにはいられませんでした。
「もし私がソフィアを愛することを止めたら、どうなるの?」
「んん、それは契約違反になるから...君の魂は即刻地獄行きだ。
さあどうする?契約するかね?」
悪魔は白く長い指を持つ手を差し出してきました。
地獄という言葉を聞いて私は怖じ気づきました。
そしてこれは「どちら」なのだろうと思いました。

悪魔の罠に落ちた愚かな女の物語か、母の愛が奇跡を起こす物語か。

私は、悪魔の手を握りました。

「契約成立だ」
悪魔はとがった牙を剥き出しにして笑いました。

いつの間にか日が暮れ、あたりは水底のように暗く、静かに、冷えきっていました。

「じゃあさっそく始めよう!はい!」
悪魔はいつの間に取り出したのかスコップを私に差し出しました。
「君がソフィアの遺体を掘り返すんだよ」
「何ですって?」
私は思わず聞き返しました。
「遺体を掘り返す?」
「本人の体が必要だ。キリストだって墓から復活したのを知ってるだろう?」

私はやおら猜疑心に襲われました。まさかこの悪魔は、ソフィアをゾンビのような状態にして生き返らせたと言い張るつもりなのでは、と。
「ちゃんと生前のソフィアの姿で蘇らせるさ」
悪魔は私の疑心を察して言いました。
「墓を掘り返すくらい悪魔の力でどうにかできないの?」
「おや?どうしたハンナ?娘を生き返らせたいんだろう?
そのためなら墓を掘り返すくらいどうってこと無いはずだ。
何せこれからやるのは"復活"だ。
神の御業に匹敵するんだ。
君にも相応の働きをしてもらう。
ほら!早く早く!
さっきも言ったが時は貴重だ。
もたもたしてると時に殺されるぞ」

私はやりこめられたような気分でしぶしぶ墓土にスコップを突き立てはじめました。
埋葬から時がたち、土はすっかり堅くなっており大変な重労働でした。
その間、悪魔は手伝いもせず、時折つまらない冗談や皮肉を言っては私を苛立たせました。

数時間掘り続けて、手足が自分のものではないかのように強ばり、酷く痛みました。
そして掌の皮は剥け血塗れになりました。
痛みに苛まれ、それでも私は一心不乱に掘り続けました。

それでもまだ、ソフィアの棺まで半分も達していなかったと思います。
このままでは夜が明けるのではと思い始めるころ悪魔は言いました。
「そろそろいいだろう。そこから離れたまえ」
すると足元の地面が小刻みに震えはじめました。
私は大急ぎで穴から這い出しました。

立っていられないほど足元がゆさゆさと揺れ、私は転げるように墓から離れました。
さっきまで私が掘っていた墓土がドッと音を立てて膨隆したかと思うと、噴火のように凄まじい勢いで吹き飛び、四方八方に飛び散りました。
雨のように土くれを浴びて私は口の中まで土まみれになりました。

しばらく動けませんでしたが、どうにか這ってぽっかり空いた墓穴の縁まで行きました。
中をおそるおそる覗くとソフィアの納められた棺の蓋が剥き出しになっていました。
ソフィアを埋葬したときのいたましい記憶がよみがえりましたが、それよりも悪魔に対する怒りが勝りました。

「出来るのなら何で最初からやらないの!」
そう怒鳴りつけると悪魔はさも心外だという顔つきになりました。
「母が子を産むときは血が流れ、痛みが伴うものだ。時間もね。生命に必要な対価だよ」
私はさらに怒鳴りつけようとしましたが、この悪魔を喜ばせるだけだと思い止めました。

あの悪魔は人を試し、翻弄し、詭弁で煙に巻くことが何より好きなんです。
なんと邪悪なことでしょう。
しかし、惨めで腹立たしい思いをしながらも、私は彼の言うことを聞く他ありませんでした。

「さあここからが一仕事だ。これからソフィアの遺体を棺から出す。見るのが嫌なら目を瞑っていたまえよ」
私は少し俊巡して、かまわないと答えました。
この悪魔に手玉に取られるのがもう嫌でしたし、ここまで来たらどんな結果になろうと全てを目にしておこうと覚悟していました。

悪魔が手をかざし、指先をちょいと動かしただけで棺の蓋が勢いよく開きました。
そこにはソフィアの遺体がありました...。

全てを見届けたいと思いながら、瞬間に私は目を伏せました。目を伏せずにはいられなかった...。あんなに黒く...。時間は、死は、惨いものですね。
いいえ、神父様、休まなくても大丈夫です。続けられます。

「まずソフィアの体を形作ろう。精緻な芸術は我々悪魔の領分でもある。ぼくに任せておきたまえ」
そう言うと悪魔の額の両側から山羊のような黒い角が生えてきました。
そして、角の間の頭上には青白い炎が煌々と燃え盛っています。

また悪魔が指先を動かすと、ソフィアの遺体が空中に浮き上がり、着ていた衣服は急速に風化し崩れ去りました。
そして腐敗したその体の表面が沸騰したかのように泡立ち歪み、やがてきめ細やかな人間の肌に変わっていくではありませんか。
奇跡を目にしていると思いました。
今思えば、冒涜に他なりません...。

すんなりとした手足、小さな乳房に、滑らかな腹、そして愛らしいソフィアの顔、黄金の髪が形作られました。
「ハンナ!ここからはまた君の仕事だぞ!願いをかけたまえ!
帰ってきてほしいソフィアを心の中に描き呼ぶんだ。我々は器は作れても魂の創造はできない。母親の君以外できない役目だ」

母親の私以外できない―
全くあの悪魔はよく言ったものです...。
私は絶対に娘を取り戻すという固い決意を胸に、愛しいソフィアの姿を思い浮かべました。
帰って来た私をいつも笑顔で迎えてくれるソフィアの顔を。
もう永遠に誰にも傷つけられず、奪われない、ずっと側にいてくれるソフィアの姿を。

すると私の擦りむけて血塗れの両掌が酷く痛み、血が汗のような滴になって滲み始めました。
掌から滴るかと思われたそれは、霧状になって舞い上がり、ソフィアの周囲にまとわりついたかと思うと、その体に染み込んでいきました。
そして、ソフィアの真っ白な体に赤みがさしていったのです。

ソフィアの瞼がゆっくりと開き、サファイアのようにきらめく、深い緑の目が私を見ました。

その目に意思の光が宿り、口が動き、「ママ」と言葉を発しました。
それは確かにソフィアの声でした。
神父様、その時の私の歓喜がどれ程のものか、ご想像できますでしょうか?
産まれたばかりのあの子を初めて抱いた時に勝るとも劣らない喜びでした。

宙に浮いていたソフィアの体はゆっくりと私の目の前に降りてきました。安堵と喜びは大きな感情の奔流となって私の心をかきみだし、涙となって溢れました。
ソフィアの名前を何度も呼びながら、自分が墓土と血にまみれていることも忘れて彼女を抱きしめ頬擦りしました。

ソフィアは状況が飲み込めないのか茫としていました。
それでも私の背にぎこちなく手をまわし、背中をさすってくれました。
生きていた時と変わらぬ優しさを示す娘が愛しく、あわれでなりませんでした。

今思い返すと滑稽ですが、その時はあの悪魔が天使のように思えました。
娘を抱きしめたまま悪魔の姿を探すと、彼は初めて会った時と同じ、犬の姿になって座っています。
「ありがとう」と私は嗚咽しながら言いました。
その時、ほんの一瞬、もしかしたら見間違いかもしれませんが、私にはあの悪魔が本気で驚いた表情をしたように見えたのです。

しかし、直ぐにいつもの人を小馬鹿にしたような口調で話し始めました。
「礼を言うのは早いよ、ハンナ。
ソフィアはまだ完全じゃない。乳飲み子と同じだ。
生きていくために母親の援助が必要だ」
そして、彼は立ち上がり、私たちの周りを円を書くように歩き始めました。

その足元に青白い炎がちろちろと燃え、燐光の軌跡を描きました。
「7年」
青白い炎が私の前を通りすぎます。
「7年間は毎日、ソフィアに君の血を与えなくてはならないよ」
「私の血を?」
「そうだよ。何、不安に思うことはない。量はわずか一滴でいい」
「何故血なの?」
「血は特別な液体だからね。
血を用いた誓約自体が一種の魔力を持つ。
その魔力と血液を介して与えられる君の生命力が、ソフィアを少しずつ完全な肉体にしてくれるだろう」
また、青白い炎が私の前を通りすぎます。

「体から流れたばかりの血を1滴、1日以上の間をあけないようにして、7年間だ。できるかね?」
そう言われ、娘のためなら何だってやる、と思いましたが、聞かずにはいられませんでした。
「もし...もし血を与え忘れたらどうなるの?」
さらにまた、青白い炎が私の前を通りすぎます。

「そしたら、ンン、そうだな、彼女は多少、お腹を空かせるだろう。それだけさ。
また死んでしまったりなどしないから安心したまえ。
だからといって忘れても良いということでは決してないよ。
大事なのは君が毎日欠かさないという誓約だ。できるかね?」
「この子のためなら何だってできる」

私がそう答えると、青白い炎が目の前で静止しました。
「ハンナ、対価を忘れるな。ソフィアを愛し続けろー」

さもなくば汝の魂はたちまち地獄に墜ちるぞ、

そう声だけ残し、悪魔は消えました。闇に滲むように。

そして、私たちを夜明けの光が照らしました。
掘り返されたはずの墓と棺は、いつの間にか何事もなかったかのようにもとに戻っていました。
きっとあの悪魔がやったのでしょう。
私はソフィアに自分のコートを着せ、車に乗せ自宅に連れ帰りました。

そして、血と土まみれのソフィアの体を洗ってやってから、指先を裁縫用の針で刺し、絞り出した血をティースプーンに1滴落とし、与えました。
それからソフィアはとても疲れた様子で、半日ほど眠り続けました。

そのあどけない寝顔を見ながら、この子を守るためだったら、7年間の血の誓約など軽いものだ、と思いました。

しかし、ああ、神父様、7年間どころか、私は、3年も、もたなかったのですよ。

3章へ続く

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