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ハンナ・ハモンドが臨終における告解で述べた奇妙な話 #1:告解

ああ、神父様、よくいらしてくださいました。
どうか、どうか私の意識がまだ鮮明なうちに、告解をさせてくださいまし。
私の犯した罪、これを誰かに打ち明けぬ内には、とても死ぬことなどできません。

私の犯した罪、それは悪魔と取引をしたことです。
いいえ、比喩ではありません。私は本当に、本物の悪魔と取引をしたのです。
面食らった顔をなさって、信じてはおりませんね?
かまいません。死に際に蒙昧した老人の戯言と思ってくださって結構です。
ですがどうか、最後までお聞きください。

あれはもう40年も前になります。
私には14歳になるソフィアという娘がおりました。
ソフィアがまだ赤ん坊の頃に夫と離婚してから、女手ひとつで育て上げた、それはそれは大切な娘でした。
金髪で、サファイアのようにきらめく深い緑の目の...こちらに写真がございます。ええ、笑顔が可愛いでしょう?

ソフィアを育てるために、私はずっと働きづめで...。しかし、どんなに働いても自分とソフィアを養うのが精一杯でした。
特に秀でたことのない女でしたから、大したこともできなかったんです。
ええ、神父様、お気遣いは無用です...でも、ありがとうございます。
そんな人生でもソフィアがいたから幸福でした。
なのにソフィアに満足に構ってやれない日も多く...。ソフィアは我が儘も不平も言わず耐えてくれました。
私が夜遅くに帰ってもいつも笑顔で迎えてくれました。実際はどんなに寂しかったことでしょう。

すいません...今思い出してもあの子が哀れで涙が出てくるのです。

あの日も、私は夜遅くに帰りました。
そして普段なら閉まっているはずの玄関の鍵が開いているのに気づいたんです。
嫌な予感が全身を駆け巡り、すぐに暗く静かな家の中に飛び込んでソフィアを探しました。

そして、私は、それを、台所で見つけました。
ソフィア...私の娘が、血溜まりの中に突っ伏していました。

それからのことはあまりよく覚えていません。
私の尋常じゃない叫び声を聞いて隣人が様子を見に来てくれたそうです。
それから私はずっと取り乱しており、気がつくと警察署にいました。

犯人はすぐに逮捕されました。
強盗でした。
たまたま玄関の鍵が開いていた家に忍び込み、たまたま起きてきたその家の娘と鉢合わせ、騒がれる前にナイフで一突きにしたのです。
もしかしたら、ソフィアは私が帰って来たと思ったかもしれませんね。
ひと刺しで心臓に達し、幸い...いいえ、でも...あの子はあまり苦しまなかったようです。

単純な、よくある悲劇でしょう?
でも私にはこの世の終わりも同然でした。
あの子が玄関の鍵を閉め忘れたことは今まで一度もありませんでした。
よりによって、そのたった一度の間違いが娘の命を奪うことになるなんて。

犯人は裁判で他の強盗殺人の余罪が暴かれ、死刑になりました。
多くの人が私に言いました。
これで娘さんも報われる。天国できっとあなたの幸せを祈っている。前向きに生きなさい、と。

残酷な言葉です。自分が当事者ではない悲劇など、所詮は他人事に過ぎないんです。そして、そんな風にしか思えない自分を責めもしました。


住人が私だけになった家の中で、何ヵ月も私は神に祈り、奇跡を願いました。
何か、兆しを、娘の魂が安らかであると思えるような啓示を神に乞い願いました。
しかし、願いは叶えられませんでした。

血溜まりが拭い去られた冷たい床、主のいない子供部屋。
私には、押し潰されそうな時と、虚ろな静寂があるだけでした。

やがて私は神に祈るのを止めました。
怒らないで聞いてくださいね、神父様。
敬虔に祈り、求めたのに何の答えも示してくれない神をいっそ憎みもしました。
そして、とうとう別のものにすがったのです。

神父様、追い詰められた精神状態だと、普段なら馬鹿らしいと思えるような迷信だって信じてしまうものなのですね。
当時の私はまさにそうでした。
子供の頃に聞いたある迷信を思い出したんです。
深夜、十字路に云って願い事をすると、悪魔が現れその願いを叶えてくれるという迷信を。

その頃、仕事帰りに私はしばしば家に帰らず、街の灯りすら見えなくなる郊外まで車を走らせるようになっていました。
冷たく静かな荒野、ハイウェイとハイウェイが交差する十字路で車を停めて、遠く山の稜線に接する星空を眺めながら、先ほど言った十字路の悪魔の迷信を思い出すのです。

そして思いました。

娘とまた会えるのなら悪魔の力を借りても構わない。
そのために魂を奪われてもいいと。

その願いは日増しに強くなりました。
最初は他愛もない迷信に気を紛らわす程度の気持ちだったのに、いつしかすがるような思いで私は十字路に通い、本当に居るかも解らない存在、悪魔に向かって願いました。

どうか、娘にまた会わせてくださいと。

そして、ある日ついに、悪魔は現れました。

最初に聞こえたのは口笛です。
奇妙な、聞いたことの無い、滑稽でどこか不安にさせられる旋律が、聞こえてきました。
私は車から降りて音の源を探しました。
しかし、それは上かと思えば下から、後ろかと思えば前から、そして近づいたかと思えば遠ざかり、私をずいぶんと翻弄しました。

唐突に後ろから、オペラ歌手のようによく響く、低い男の声がしました。
「やあ、ハンナ」と英語で私に呼び掛けたのです。
振り向くと、何がいたと思います?きっと信じられないでしょう。

それは犬です。
真っ黒で、大きな、痩せた犬が座っていました。

その犬の瞳は赤く、人間のような知性を感じさせました。
そして、呆気にとられる私にむかって歯を見せてにやりと笑ったのです。
犬が笑うんですよ。まるで人間のように。
「やあやあ、ご婦人を驚かせてすまないね。久しぶりなもので、人の姿をとるのには時間がかかる。」
犬はそう言いました。

「お会いできて光栄だ、ミセス...いやミス...ミズ、かな...?
まあいいや。とにかく定命の者ハンナ・ハモンドよ、ぼくは君の喚ぶ声に応じて馳せ参じた。
さあ!願いを言ってみたまえよ」

そうまくしたてると犬はふんと息を吐きました。
その息と共にちろちろと青白い炎が燃えるのを見て、私は、半ば自分が狂ったと思いながら黒犬に「あなたは何?」と聞きました。

黒犬は面食らった顔、犬にそんなものがあるのならですが、とにかく意外そうな顔つきをして
「何、とは失礼な。悪魔に決まっているじゃないか」と答えました。

「ジン、ダイモーン、イブリース、マーラ、様々な呼び名が有るけれど、悪魔と呼ばれる機会が一番多い」
犬は立ち上がって、私の周りを大きく円を描くように歩き始めました。その足元にも青白い炎がちろちろと燃え、燐光の軌跡を描きました。
「君は取引をしたくてぼくを喚んだのだろう?」

犬の問いに震える声で「そうよ」と答えました。
犬の足にまとわりつく、青白い炎が
私の目の前を通りすぎます。そしてまた、タッ、タッ、タッと軽く地を叩く犬の足音が私の周りを巡りました。
「ならば君、叶えてほしい願いを言葉にしてみたまえよ」
私は、唾をごくりと飲み、綱渡りをするような気持ちで、混乱した思考をどうにか制御して、言葉を選びながら慎重に言いました。
「娘、私の、死んだ娘にまた会いたい」
青白い炎がまた私の前を通りすぎます。
「それが本当の願いかね?心からの?妥協まじりの願いなど、叶える価値もない」
犬は私の言葉を一蹴しました。
「君の本心を聞きたい」

私の本心とは?私は自分の心に問いました。

ソフィアを初めて胸に抱いた時の喜び、共に過ごした時間、何よりも好きだった彼女の笑顔を想いました。

そして、私に遺されたものを思いました。
血溜まりの拭い去られた冷たい床、一人きりの家、静寂、目の前に横たわる長い長い孤独な時間、その遠くに見える己の死。

嫌だと思いました。

「娘を生き返らせて!そして二度と、誰にも、娘を私から奪わせないで!」

青白い炎が私の前で止まり、揺らめきました。
「ありがとう、ハンナ。君の願いは聞き届けたよ」
黒犬はいつの間にか、黒髪を後ろに撫でつけ、黒いスーツをまとった人間の男の姿になっていました。
その赤い目だけは犬の姿と同じで、闇夜の中、燦々と輝くようでした。

2章へ続く

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