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埼玉を海の徒歩圏にする 川口駅→葛西臨海公園30km歩行記録 

5月のある晴れた朝、埼玉県から海まで歩いてみることにした。

埼玉に引っ越して3年が過ぎ、そこそこ土地に対する愛着も湧いているのだが、どういうわけかこの県は「海がない」ということをことさらに気にする傾向がある。『翔んで埼玉』の映画でも、そうした内陸コンプレックスが多く取り入れられている。

とはいえ、令和現代はシェアリング・エコノミーの時代、所有権よりもアクセス権の時代である。必要に応じてフラッと見に行ける、ちょうどいい距離に海があればよい。むしろ津波や高潮の被害を考えれば、海はある程度離れているほうがいい。

というわけで今回は、埼玉県から海まで徒歩で行き、埼玉県が「海の徒歩圏」であることを示そうと思う。730万の埼玉県民に対し「我々がその気になればフラッと海まで行ける」と掲げることで、その意識改革を図りたい。


コース選定

まず適切な目的地を決める。東京湾はそこそこ広いが、巨大なクレーン車が動き回るコンテナ港だったり、護岸工事が施されたコンクリートの塊だったりして、恋人どうしが初夏のアパートでぼんやりと「海、行きたいよね……」とつぶやいた時にイメージされる白砂のビーチは意外と少ない。

そんな数少ない「海っぽい海」が葛西臨海公園である。都内の地理に明るくない方でも「ディズニーランドの対岸」と言えばだいたいわかるだろう。

そして「歩いて楽しそう、迷わなそう、横断歩道に阻まれない」といった点を勘案し、埼玉県川口市から荒川沿いをひたすら歩くコースにする。最短経路は26kmほどで、現実的にはちょいちょい寄り道をするので30kmくらい。数年前にハーフマラソン完走したことあるし多分大丈夫だろう。


9:00 川口駅

電車でJR川口駅へ向かう。京浜東北線の埼玉県における最南端である。GW真っ最中ということもあって、電車に乗り込む家族連れの顔から「これから楽しいことが起きるよ!」というオーラが溢れている。自分にもあんな人生があり得たのかなあ、などと考えてしまうが、こちらには「埼玉を海の徒歩圏にする」という重大な使命を背負っているのだ。真剣に臨まねばならない。

改札を出て、タワマンの立ち並ぶ市街地を抜け、15分ほどで新荒川大橋に着く。ここが東京都との県境になる。まだ海の気配はひと粒も感じられないが、「水は海に向かって流れる」という田島列島の漫画を信じて突き進もう。

↑自分のマスコットキャラ(名前未定)

「晴天」というプロンプトで生成したような天気。気温も24℃と絶好。こんな散歩日和は1年通して3日くらいしかないので、今日だけで100日分くらい散歩溜めしよう。あとの99日は引きこもってよい。


10:00 岩淵水門

荒川の右岸(東京都側)を1時間ほど下っていくと岩淵水門が見えてきた。この門を通じて荒川の水を隅田川に融通したりしなかったりすることで、下流域を水害から防ぐものである。

このような治水工事は江戸時代から断続的に行われており、荒川の流域はこの数百年で大きく西に変更されている。平穏な見た目に似合わない「荒川」という名前が、その深刻な水害の歴史を物語っている。川というのは意外と人工物なのだ。


大人の遊具(隠語ではない)

河川敷のありあまる土地に「大人用」と書かれた台が置かれている。隣の説明書きによると、腹筋運動やストレッチなどに使うとのことである。別に子供が使ってもいいと思うが、わざわざ「大人用」と書くのは公園の遊具は子供のものという基本原則があるためだろう。


11:00 靴下の再発見

日暮里舎人ライナーの下をくぐる

このあたりで少しずつ足に疲労の気配が見えてくる。徒歩の疲労というのは独特のパターンがあって、まず第1段階として靴下の存在が意識に上ってくる

疲れていない時の人間は「自分はいま靴下を履いている」なんてことは考えないが、長距離を歩くと次第にふと「あれ、右足の小指が靴下に当たっているな?」といったことを感じるようになってくる。不快感ではなく本当にただの意識であるが、早めに絆創膏などを貼っておくと靴ずれを防げる。ただ河川敷を歩いている時に唐突に靴下を脱ぐというのは結構難しい。


無を恐れよ

こういう看板はだいたい赤字で注意すべきことを書いているのだが、赤インクというのは青色光を吸収するから赤いのであり、そして青色光というのはエネルギーが大きいためインクの分子を分解してしまう。結果的に注意すべき対象が消えて「無を恐れよ」というエアプのニーチェみたいな格言が誕生する。


川沿いに(株)アスケンという工場が建っている。友人が最近よく「アスケンに身体を管理されている」と言っているが、彼がロボットである可能性がここにきて急浮上してきた。


遠方に東京スカイツリー(634m)が見える。すぐそばに半分くらいの赤い鉄塔があるので、あれが東京タワー(333m)に違いない。

と思いながら近づくと、スカイツリーのほうが低くなってしまった。東京タワーは現在も伸長を続けているようだ。


12:00 常磐線をくぐる

トラス橋のバーゲンセール

鉄道橋の密集地帯。手前から順にメトロ千代田線、JR常磐線、つくばエクスプレス、ちょっと離れて東武伊勢崎線。なにしろ東京の川なので鉄道橋が山ほどかかっている。地図を見ながら「次は京成本線だ」「その次は押上線が見えるぞ」といった具合に短期目標を刻んでいけば、単調な歩みもそれほど退屈しない。

こんなもんどこから撮ってもかっこいいだろ

ちなみに「都電荒川線」はその名に反して荒川をまたがない。これだけ多くの路線が荒川をまたいでいるのに羊頭狗肉もはなはだしい。道理で「東京さくらトラム」に改称されるわけだ。

そっち向きに落ちることある?

堤防から見ると澄んだ川だが、そばまで近づくと川岸には泥が堆積していて、自転車がときどき捨てられている。『千と千尋の神隠し』で見たやつだ。「名のある川の主」は荒川かもしれない。

そろそろ疲労が第2段階に入ってくる。さっきまでは「靴下がある」と意識するだけだったが、このあたりで足首の動きが自分の意志と若干ズレてきて、それによって「自分には足首がある」という認識が生じるようになる。それがやがて「ふくらはぎがある」そして「膝もある」という具合になり、身体感覚がだんだん上ってくるのだ。

人間はふつうに生きている時は「歩く」という行為がどれだけ複雑なのかを意識しない。疲労で不調をきたすことで、ようやく自分の当たり前が数多くの筋肉と関節に支えられている、と意識するようになる。


13:00 スカイツリー最接近

ずっと進行方向に見えていたスカイツリーがこのあたりで真横になる。つまり最接近地点である。といってもまだ2.5kmある。これだけ遠いとそもそも「遠近感」というものがない。他のビルは全てポリゴンなのに、スカイツリーだけ一枚絵の背景である。


これは公道、それとも人ん家?

このあたりで昼飯にする。といっても座って休む暇はない(立ち上がるのがきわめて億劫)ので、適当なコンビニでパンをお茶を買って食べ歩く。いわゆる東京下町で、自家用車のない時代から存在したであろう狭い道路を抜けて、ふたたび河川敷へと戻る。


ポピーと成田エクスプレス 赤の共演

総武線が近づいてきたところで、急に地面がいちめんの赤に覆われる。何かと思ったらポピー畑だった。春の散歩は時々こうした嬉しい演出がある。

そろそろ疲労が第3段階に至り、アスファルトを踏むのが辛くなってくる。なるべく土手のほうを選んで歩くようにする。アスファルトというのは根本的にタイヤのための舗装路なのだ、というのを思い知らされる。

人間がチンパンジーよりも優れている点のひとつに長距離移動の能力があるが、その一役を担っているのが足裏の土踏まずである。この構造がクッションとなることで歩行によるダメージを緩和しているのだが、数百万年前の進化だけあってアスファルト舗装路の登場は想定していなかったらしい。進化は万能ではない。


14:00 中川沿いへ移動

都営新宿線は千葉県まで行く

最終目的地は荒川の左岸にあるため、都営新宿線のあたりで橋を渡る。荒川と中川の間にある、首都高の幅くらいしかない狭い土地を歩く。髪型が変わるくらい風が強い。

このあたりで疲労が第4段階に至り、呼吸が有声音になってくる。漫画でいう「ゼーゼー」という音である。意識的に止めようと思えば止められるのだが、なぜか音を出すほうが楽なので出す。スマートウォッチから「運動量がすごいです!」という感じの通知が来る。そんなことはスマートでなくてもわかる。


15:00 旧葛西海岸

東京メトロが地上にあるのもそろそろ慣れた

東西線の走っているあたりに、古い堤防の痕跡が残っている。かつてはここが海岸線だったのが、戦後に建設された新堤防によって2kmほど後退したとのことである。おかげで江戸川区の住宅地はだいぶ増えたが、埼玉県から歩く勢にとってはなかなか辛い+2kmである。

改めて調べてみると、海岸線というのは土木工事や気候変動でかなり動く。「埼玉には海がない」というのも恒久不変の真理ではない。春日部市から貝塚が発見されていることからもわかるように、縄文時代まで遡れば埼玉県内に海があったのだ。これから海面上昇によって復活する可能性もある。

疲労はいよいよ最終段階に至る。このフェーズに入ると一度止まったらもう歩けないため、とにかく止まらないようにする。赤信号でぐるぐる回っている人がいたら、元気が余っているのではなく極端に疲れている可能性がある。


15:30 葛西臨海公園に到着!

着いた!!!!!!!

ちゃんと砂浜がある、まごうことなき海である。

『ハチミツとクローバー』に登場する巨大観覧車。GWだけあってしっかり45分待ちだった。待つ体力もないので大人しく駅に向かい、構内のラーメン屋でつけ麺を食べて帰宅。


まとめ

ということで、埼玉県から海までは歩いて行けることが無事に示された。

今回6時間半かけて歩いた距離は、JRにすると483円だった。そもそも首都圏の交通網の発達度を考えると、埼玉の中心部はかなり海に近い部類だと言える。僕の故郷(福島県の内陸部)は山脈を2つくらい越えないと海に着けないので、小さい頃は「海」というものを見たことがなく、「猪苗代湖のでかい版」だと思っていた。

歩数計が見たことない数字を出した

あと現実的な収穫としては、荒川をまたぐ鉄道の順番を覚えた。上流から順に、

日暮里舎人ライナー → メトロ千代田線 → JR常磐線 → つくばエクスプレス → 東武伊勢崎線 → 京成本線 → 京成押上線 → JR総武線 → 都営新宿線 → メトロ東西線 → JR京葉線

の11本である。2次元ではカオス過ぎる東京の路線図だが、「荒川をまたぐ順番」ということで1次元化することでだいぶ把握しやすくなった。もっと上流の路線(東北新幹線など)も覚えたいので、そのうち上流も歩こうと思う。


補足情報

今回はいくつかの理由で荒川コースを使ったが、最短経路を狙うのであれば三郷市→塩浜の江戸川コースのほうが近い(Google Map で16km)。ただ出発地点までのアクセスは川口駅よりも少々悪い。

他の内陸県についても調べたが、山梨、長野、岐阜、滋賀、奈良はどれも20km以内のコースが存在するため、埼玉同様に踏破可能と思われる。ただし首都圏と違って出発地に行くために自動車が必要なコースばかりである。栃木は那珂川・久慈川コースで40km、今回よりもかなり長いが、ギリギリ1日で踏破可能だろうか。

最も困難なのは群馬県で、渋峠→直江津の84kmが調べた範囲で最短コースである。途中でいくつか峠も越えるので、一般的な人類にとって群馬は海の徒歩圏ではないと思われる。

(おわり)


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